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「阿武隈の岸」歌碑

「阿武隈の岸」歌碑

1.テキスト

   福島と宮澤賢治

ただしばし群れとはなれて
  阿武隈の岸にきたれば
        こほろぎ鳴けり
            宮澤賢治

 岩手県花巻市出身、「風の又三郎」「よだ
かの星」「銀河鉄道の夜」などの童話で有名
な詩人・文学者 宮澤賢治が大正五年(一
九一六年)十月にこの福島市へ来訪し、短
歌を5首ほど創作しておりました。(全集にも
記録されています。)
 宮澤賢治は、山形市で開催された「奥羽
連合共進会」に見学にいくとき盛岡から福
島駅で途中下車して、阿武隈川を見るため
に歩いて行き、そのときの印象を詠ったひとつが
この歌です。
     ~大正5年ふくしま阿武隈川にて~
 (詠われた場所はこの隈畔周辺の様です。)

        平成二十年十一月十六日設置
      御倉町かいわいまちづくり協議会

2.出典

歌稿〔A〕〔B〕 358

3.建立/除幕日

2008年(平成20年)11月16日 設置

4.所在地

福島市御倉町1-78 御倉邸内

5.碑について

 賢治は、盛岡高等農林学校1年の10月4日、山形で開催されていた「奥羽連合共進会」という一種の地方博覧会を見学するため、団体で盛岡から列車に乗り、福島を経由して山形に行きました。この会には東北各県の特産物などが出品されていたので、農業の勉強にも役立つという趣旨だったのでしょう。
 盛岡から山形へ行くのに福島をまわるというのは、現代の鉄道路線図を見ると遠回りのように思えますが、当時は北上と横手を結ぶ北上線、仙台と山形を結ぶ仙山線など、奥羽山脈を越えて東西をつなぐいわゆる「肋骨線」がまだ開通していなかったため、福島を経由するしかなかったのです。
 しかしそのまわり道のおかげで、ここに賢治と福島との、一度きりの出会いが生まれました。もちろん、賢治は上京のたびに東北本線で福島を通過していますが、彼が福島の土を実際に踏みしめたのは、この「1916年10月4日」という1回だけだったのではないかと思います。

 そして、この見学旅行の折りに、賢治はちゃんと短歌も残してくれています。下記は、「歌稿〔A〕」から。

   仙台
357 綿雲の幾重たゝめるはてにしてほつとはれたるひときれの天

   福島
358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

   山形
360 雲たてる蔵王の上につくねんと白き日輪かゝる朝なり
361 銀の雲焼ぐひの柵われはこれこゝろみだれし旅のわかもの

   福島
362 しのぶやまはなれて行ける汽鑵車のゆげのなかにてうちゆらぐかな

 358、359、362の三首が「福島」と題されていて、前二首は阿武隈川を、三首目は信夫山を詠んでいます。おそらくここでも賢治の短歌の順序は時間系列に沿っているでしょうから、358、359は往路の福島、362は復路の福島なのでしょう。
 短歌の内容から推測すると、往路の賢治は汽車を降りて阿武隈川の水辺まで行ったようですが、復路の362は、車窓からあるいは駅プラットフォームからの眺めのように感じられます。

 ところで、『【新】校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」p.220には、往路の賢治たちが乗った可能性のある列車として、下の二通りが掲載されています。

(A)盛岡発 13:05 (東北本線上り202列車)
仙台発 18:15
福島着 20:42
|  福島で4時間13分待ち合わせ
福島発 00:55 (奥羽線下り701列車)
山形着 04:36

(B)盛岡発 04:28 (東北本線上り204急行)
仙台発 08:25
福島着 10:21
|  福島で59分待ち合わせ
福島発 11:20 (奥羽線下り七〇一列車)
山形着 16:00

 (A)の場合は、福島に着いたのは夜で、待ち合わせ時間は4時間13分もあります。一方、(B)の場合は盛岡を早朝に発って福島には午前中に着きますが、待ち合わせ時間は59分です。
 福島駅からこのあたりの「隈畔」までは往復で約2.6kmなので、(B)の59分の間にも、行って帰ってくることは可能です。しかし、知った場所ならともかく、見知らぬ土地で団体から離れて一人で出かけるには、ちょっと不安も感じられる持ち時間です。それに、待ち合わせ時間が59分くらいならば、学校としてもその間に学生を自由行動にはしなかったのではないかとも思ったりします。
 (A)ならば、賢治が阿武隈川のほとりに出たのは夜だったことになります。そして、この二首の短歌は、夜の情景と考えた方が何となくしっくりくる感じもします。

358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

 賢治としては初めてまぢかに見る阿武隈川です。川は雄大に流れ、向こう岸には「弁天山」なども見えるのですが、短歌二首にはあたりの風景は何も描かれていま せん。そのかわりに、「こほろぎなけり」という聴覚的描写のみがあります。359の「水銀のあぶくま河」というのが、視覚と関係した唯一の描写ですが、川面を「水銀」と形容するのは、暗闇の中の景色と考えることもできます。
 というわけで、私としてはこの時に賢治は、秋の夜の阿武隈川の岸に来て、暗い川岸で鳴くこおろぎの声を聴いたのではないか、と想像します。

 歌には、言いしれぬ孤独感があふれています。なぜ賢治は、級友とともに行動せずに、一人「群れとはなれて」川岸まで来たのでしょうか。まるで何かの懊悩をかかえているかのように、「ひたひぬらさん」とした理由は何だったのでしょうか。
 その理由はわかりませんが、彼が晩年に生涯を顧みて記した「「文語詩篇」ノート」には、この数ヵ月前にあたる「農林第二年 第一学期」の項に、“Zweite Liebe”(=二度目の恋)という言葉が書かれていることは、注目に値すると思います。

◇               ◇

 この碑があるのは、その昔に日本銀行福島支店長の公邸として使われていた「御倉邸」という屋敷跡です(下写真)。JR福島駅から南東の方向に約1.3km、福島県庁の南側にあって、裏側に阿武隈川が流れている造りになっています。

御倉邸

 賢治が来た川岸がこの場所だったという確証はないのですが、福島駅から歩いてきたとすれば、このあたりだった可能性が高いのでは、という推測にもとづいていているのでしょう。

 私が訪ねた日はあいにくの雨でしたが、屋敷の裏側に出ると川岸に出られるようになっていました。花巻あたりの北上川を思わせるような、ゆったりとした流れです。

隈畔から川上を眺める