「タッピング・ポンド」銘板
1.テキスト
タッピング・ポンド
( TOPPING MEMORIAL POND )
「タッピング・ポンド」は、タッピング家を記念して造られたものである。1962(昭和37)年、本学の教員であったウィラード・タッピングの妻、エヴェリン(同じく本学教員)の寄附金を基に、卒業生等の寄附金を加えて竣工された。この度、新しい建物と共に「タッピング・ポンド」も新しくなった。1895(明治28)年、ウィラードの父(ヘンリー)と母(ジュネヴィーヴ)は宣教師として来日し、東京中学校(後の東京学院。関東学院の源流の一つ)に赴任した。その後、1907(明治40)年、タッピング一家は岩手県盛岡に活動の場を移した。盛岡では詩人・童話作家の宮沢賢治(1896-1933)とも出会いがあった。宮沢賢治は「岩手公園」と題した詩の中でタッピング一家のことをつづっており、その詩碑は盛岡市岩手公園にある。タッピング一家の関東学院をはじめ、日本各地における宣教と教育のための奉仕活動を記念し、タッピング・ポンドをここに設置する。
岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は声もなし
なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり
老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか。」
弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ
宮 沢 賢 治
2.出典
「岩手公園」(「文語詩稿 一百篇」)
3.建立/除幕日
2006年(平成18年)3月 建立
4.所在地
横浜市金沢区六浦東1-50-1 関東学院大学 金沢八景キャンパス内
5.碑について
文語詩「岩手公園」には、公園を散歩しているタッピング一家の様子が描かれています。
最初に出てくる「老いしタピング」とは、盛岡浸礼教会の牧師で一時は盛岡中学で英語を教えたヘンリー・タッピング(Henry Topping, 1857-1942)です。賢治が中学1年の年の9月にタッピング氏は嘱託を辞しているので、中学でタッピング先生に習ったかどうかはわかりませんが、盛岡高等農林学校1年の時、賢治はタッピング牧師の聖書講座を受講したとのことで、少なくともここでは親しい接触があったと思われます。
「大学生のタピング」とは、ヘンリーの長男のウィラード・タッピング(Willard Topping, 1899-1959)でしょう。そして「老いたるミセス・タッピング」は、ヘンリーの妻、ジュネヴィーヴ・タッピング(Genevieve Faville Topping, 1863-1953)です。彼女がウィラードに「なが姉」と言っているのは、長女のヘレン・タッピング(Helen Toppng, 1889-1981)のことで、ヘレンも盛岡中学で英語を教えていたので、「中学生の一組に花のことばを教へし」ということがあったのだと思われます。語りの中で「なが姉」と表現されているところを見ると、この場にはヘレンはいなかったのでしょうか。
これらの会話は、もちろん英語でなされていたのだと思いますが、賢治はそれを聴き取って文語調に訳しているわけですね。
さて、ここに登場するタッピング一家の人々は、現在横浜市にある関東学院大学の創設や発展にも、深く関わっていたということで、その業績を記念して同大学キャンパスに設けられているのが、「タッピング・ポンド」という池と、その銘板です。写真の銘板には、タッピング一家と関東学院大学の関わりとともに、賢治の「岩手公園」テキストも刻まれています。
上の銘板にもあるように、この池はまず1962年に竣工されましたが、その初代の「タッピング・ポンド」は、下写真のような様子だったということです(『関東学院史資料室ニューズレター第6号』より)。
冒頭の写真にある現在の「タッピング・ポンド」は、2005年に校舎が新築された後に造られた「二代目」で、新たに設置されたガラス製の立派な銘板に、賢治の詩のテキストも刻まれることとなりました。
タッピング一家は、大正時代に北国の地方都市で、後の詩人・童話作家の心に独特の印象を残しただけでなく、日本における教育やキリスト教伝道において、多大な貢献をなしていたのです。
関東学院大学金沢八景キャンパス