「ひとはすでに二千年から」詩碑

1.テキスト

一〇八四
〔ひとはすでに二千年から〕
           一九二七丶七丶二四丶
ひとはすでに二千年から
地面を平らにすることと
そこを一様夏には青く
秋には黄いろにすることを
努力しつゞけて来たのであるが
何故いまだにわれらの土が
おのづからなる紺の地平と
華果とをもたらさぬのであらう
向ふに青緑ことに沈んで暗いのは
染汚の象形雲影であり
高下のしるし窒素の量の過大である
               宮澤賢治

2.出典

一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕(下書稿)」(「詩ノート」)

3.建立/除幕日

2002年(平成14年)12月 建立

4.所在地

岩手県花巻市 中北万丁目



5.碑について

 この碑の裏面には、次のような説明が刻まれています。

 地域の長年の悲願であった豊沢ダムが一九六一年五月完成し、みごとに整備された広大な美田をうるおしている
 豊沢ダムの実現に一身をささげた豊沢川土地改良区初代理事長平賀千代吉翁の偉業をたたえる顕彰碑は 当初東北自動車道花巻南ICの西方に建立されたが 農道の整備により この地に移設した
 ここに 記念として こよなく郷土を愛し 稲作指導や肥料設計など ひたむきに農民のために力を尽くした宮澤賢治の「詩ノート」から 土にちなんだ一篇を石に刻んで建立する

 二〇〇二年十二月

 そしてその隣には、移設された右のような平賀千代吉氏の顕彰碑が立っています。
 「【新】校本全集」年譜篇によれば、賢治が勤めていた稗貫農学校が1923年に移転するにあたって用地問題でもめた際に、この平賀千代吉氏が、賢治の叔父宮澤恒治らとともに解決に動いたということです。
 ですから、平賀氏は賢治よりも年長だったのでしょう。

 「渇水と座禅」に描かれ、また「ヒデリノトキニハナミダヲナガシ…」と賢治に嘆じられたこの地方の旱害を根絶するために、豊沢川上流に大貯水池を造るという計画が発表されたのは、賢治の死後1938年のことでした。
 その後戦争をはさんで、1950年に「稗和西部土地改良区」が設立され、初代理事長となった平賀千代吉氏は、ダム建設のために奔走します。ついに1961年に豊沢ダムが完成し、下流の5000ヘクタールが十分な農業用水でうるおうことになりました。
 もう、人々の「ナミダ」は流されなくてもよくなったのです。


 詩碑の作品の中で、賢治はふと農作業の手を休め、この日本列島においてはほぼ2000年にわたって続けられてきた「農業」という人間の営みの歴史を、しみじみと慨嘆しています。この時期彼は、農学校教師を辞めて「本統の百姓」になってまだ1年あまりというところですが、実際に毎日農作業に従事してみると、理屈どおりにいかないその困難さも身にしみていたことと思います。
 やはり人間は、大自然の前に無力なのでしょうか。

 いいえしかし、その後70年ほどが経った現代から見ると、稲作に関して当時の賢治が夢見たことは、ほとんど実現してしまったようにも思われます。
 いま日本中の田んぼは、毎年決まって「一様夏には青く/秋には黄いろに」色づきます。今では私たちはそれを当たりまえのことと思っていますが、賢治の時代には、これはすごいことだったでしょう。

 右図は、この2000年の間に、1反(10アール)あたりの米の収穫高(反収)がどのように推移したかを示すものです(佐藤洋一郎『稲の日本史』.角川書店,2002)。
 今から2000年前、弥生時代の反収は190kgと推定されていますが、意外にもこの値は、その後古代から中世・近世と時代が下っても、ほとんど増加しませんでした。実際の収量の変化よりも、その推定方法の違いによる誤差の方が大きいという印象です。
 それが、1880年頃からこの値は驚異的な増加を見せ、わずか120年のうちに、3倍近くになるのです。西暦2000年の反収は、実に 518kg になっています。
 これには、近代的な品種改良によって、安定した収穫が得られる稲が広まったことの意義が最も大きかったと言われていますが、もちろん平賀翁のような水利事業や、賢治が努力した肥料の面での進歩も貢献しているでしょう。


 つまり、賢治が農業の現実に悩み苦しんだ時代は、実は有史以来最も大きな変化が起こりつつある時代でもあったのです。変化が感じられたからこそ、賢治のような人にとっては「農業は改革できるはずだ」という可能性が確信から責任感へと変わり、それが逆に焦りや葛藤になったと言えるかもしれません。
 でも結局は、賢治や平賀千代吉氏のような人々の、また名前は残っていないもっとたくさんの人々の努力のおかげで、上の図の急カーブが形づくられたわけです。


 北万丁目にある碑の前には広々と水田が広がって、それは何か象徴的な景色のように思われます。
 賢治自身は見ることのできなかった、この「二千年」のうちの最後の70年の成果を、詩碑がじっと見つめているかのようです。


後ろから見た詩碑と前の田んぼ