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「風林」詩碑

1.テキスト

とし子とし子
野原へ來れば また
風の中に立てばきっと
おまへをおもひだす
おまへはその巨きな
木星のうへに居るのか

  詩「風林」より
       賢 治

2.出典

風林」(『春と修羅』)より

3.建立/除幕日

1994年(平成6年)4月29日 建立/除幕

4.所在地

花巻市南万丁目 花巻南高等学校

5.碑について

 宮澤トシ(通称 とし子)は、この碑がある花巻南高校の前身である旧制花巻高等女学校の、第一回入学生でした。とし子(日本女子大学卒業時)
 尋常小学校の時には、初めて創設された「模範生」という制度で表彰され、この高等女学校へも首席で入学して毎学年首席をつづけ、東京の日本女子大学でも成績優秀のためいくつかの逸話があったという とし子は、「学校秀才」ということに関しては、兄の賢治をも上まわる存在であったようです。
 女子大学生の頃の書簡や覚書を見ても、二才上だった当時の賢治が世間知らずでエキセントリックな言動ばかりしていたのに較べて、はるかに思慮深く冷静で、確立された自我を感じさせます。

 とし子は大学三年の時に肺炎で倒れて花巻に帰り、いったんは回復して、母校であるこの詩碑の地で、「教諭心得」として教壇に立ちました。しかし結局一年後に喀血し、退職してそのまま死の床に就くことになります。

 1922年11月27日に とし子が亡くなった時、賢治は同日付けで「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という三部作を書きましたが、この後6ヶ月あまりの間は、一篇の作品も残していません。このような長期のブランクは、『春と修羅』第一集から第三集に至る賢治の詩作経過のなかでも珍しいことす。

 この6ヶ月の、声の無かった時期こそが、まさに「無声慟哭」という言葉の象徴するものなのかと思ったりします。

 碑の「風林」という詩は、長かった沈黙が破られる劈頭となる作品です。おそらく、農学校の生徒の有志を連れて、前夜から徹夜で徒歩旅行をして、一休みをしているところかと推定されます。
 作品の前半では、賢治の耳にはいちおう生徒たちの会話が聴こえていますが、この詩碑になっている「とし子とし子…」という箇所に至って、ついに半年ぶりに妹の名前が作品のなかで呼ばれ、あとは堰を切ったように思いがあふれだします。


花巻南高等学校