「農民芸術概論綱要」碑

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1.テキスト

まづもろともに
かゞやく宇宙の
微塵となりて無
方の空にちらばら
う   徹書■

2.出典

「農民芸術概論綱要」

3.建立/除幕日

1972年(昭和47年)11月16日 除幕
2011年(平成23年)3月11日 東日本大震災津波で損壊
          5月29日 三上満氏のグループが校舎跡から碑石掘り出し
          その後碑石は仮校舎に搬入保存
2012年(平成24年)9月21日 旧校舎図書室で谷川徹三氏の色紙原本を発見
2020年(令和2年)10月16日 碑再建お披露目会

4.所在地

岩手県陸前高田市高田町字長砂78番地12 岩手県立高田高等学校 正門脇

5.碑について

 1972年(昭和47年)、宮澤家から岩手県立高田高校に、「賢治が喜ぶようなことに使ってほしい」との意向で、金一封が寄附されました。賢治が晩年に関わった東北砕石工場の鈴木東蔵の長男である鈴木實氏が、当時この高校の校長をしていた縁によるものだったということです。高田高校では、この寄附をもとに賢治の碑を建設しようということになり、学校、PTA、同窓会、市内有志によって「宮沢賢治詩碑建設委員会」が組織されました。
 碑文としては、たまたま2年前の同校創立四十周年記念の折に、招聘講演を行った哲学者の谷川徹三氏が、講演後に揮毫した色紙「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」を刻むことになり、色紙をもとに銅板が鋳造されました。碑石は、陸前高田市を流れる気仙川の上流、住田町上有住桧山の桧山川の転石を使用したということです。
 碑の製作は、森荘已池の助言のもとに行われ、1972年11月16日の除幕式には、森荘已池が来校して記念講演を行いました。(吉田精美『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』より)

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 上の写真のように高田高校の前庭に設置された碑は、その後長年にわたって生徒たちに親しまれ、銅板の碑面はかなり擦り減っています。金属板がここまで摩耗しているのには、実は事情があって、歴代の高田高校生の間では、「賢治の碑を撫でると頭が良くなる」という伝説が長年秘かに語り伝えられているということで、この擦り減った碑版には、生徒たちの祈るような思いが込められているというわけです。
 下の写真は、私が2000年8月に訪れた時に撮影したものですが、刻まれた文字は、その辺の10円玉なんかよりもずっとツルツルになっています。

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 さて、このようにして高校生たちに愛されてきた賢治の碑でしたが、2011年3月11日にこの地方を襲った東日本大震災と津波によって、高田高校もこの碑も、激しい損壊を受けました。高校の校舎は、海岸から1kmも内陸に位置しているのですが、その3階までもが全て津波の奔流に飲み込まれてしまったのです。在校生で死亡または行方不明となった人数は22人に達し、これは岩手・宮城・福島の東北3県の高校で、最も多い数字でした。

 この賢治の碑も、大量の瓦礫に埋もれて所在がわからなくなっていましたが、元教師で賢治研究家の三上満氏が、地元の賢治愛好家や「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝さんと前館長の伊藤良治さんらに呼びかけて、2011年5月29日に現地に入り、瓦礫や泥のなから探し当てました。
 周囲に大量の鉄骨や瓦礫が散乱し、土の中から頭だけが出ている状態の巨大な碑石を掘り出す作業は、さぞ大変なものだったろうと推測しますが、銅の銘板が嵌め込まれていた高さまで掘ってみると、残念ながらその場所は空隙になっていました。「おそらく津波によって運ばれたものが、何度も何度もこの碑に激突してはぎとっていったのであろう」と三上氏は書いておられます。
 そして三上氏は、碑の近くに倒れている柱に、「ここに宮沢賢治の碑があります。/いつの日か高田高校がよみがえり/この碑がふたたびシンボルとなる/日がくることを願っています/二〇一一年五月二九日 有志記す」とのメッセージをマジックで書き残し、帰りに市の教育委員会に寄って、一連の経過を報告したということです。(三上満『賢治の旅 賢治への旅』本の泉社 より)

 下の写真は、2011年11月に私が高田高校の旧校舎跡を訪ねた時のものですが、この時点では、高校正門の倒れた門柱や、甲子園出場記念碑は残っていたものの、賢治の碑や三上さんの書き置きを見つけることはできませんでした。すでに仮校舎の方に移されていたのかもしれません。

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 さて、上記のような経過で掘り出されはしたものの、碑版を失ったままだった賢治の碑ですが、その後また奇跡的な出来事が起こります。
 2012年9月15日、高田高校新校舎の着工式が行われ、旧校舎の方は取り壊しに入るために、同年9月22日に生徒や学校関係者による「旧校舎お別れ式」が行われることになりました。その前日9月21日に、旧校舎3階の図書室の最後の整理の際に、谷川徹三氏が42年前に揮毫した色紙「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」が、砂にまみれた状態で発見されたのです。これを元にしてもう一度銅板を鋳造すれば、失われていた碑版を復活させることもできるわけです。
 発見された9月21日が賢治忌であるというのも何かの因縁を感じますが、この日を逃せば旧校舎もろとも完全に失われてしまうという最終期限ギリギリになって、碑の再建のための最後のピースが出現するというのは、何という神さまの計らいでしょうか。これによって、高田高校校長も「復元を検討したい」と正式に表明されるに至ったのです。
 下の新聞記事は、この色紙発見を報ずるものです。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 この間、大船渡市にある仮校舎の裏で出番を待っていた碑石が、下の写真です。(2013年5月撮影)

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 碑の銘板が取り付けられていた場所に残る四角い跡が、ちょっと痛ましい感じもしますが、いずれはここに新しいピカピカの銅板が嵌め込まれるはずで、今はその時をじっと待っているのです。

 というような紆余曲折の後、ついに2020年の10月16日、岩手県立高田高校の創立90周年記念式典に合わせて、新たに再生した宮沢賢治の碑の「お披露目会」が行われました。高田高校ウェブサイトの「90周年記念事業」のページからは、「お披露目会」におけるこの碑の写真も見ることができます。「高田高校生がさわると、頭が良くなる」という伝説も、ちゃんと書かれていますね。

 再建から1年あまりが経った2022年2月に私が訪ねた時点では、まだ銅板は下の写真のようにピカピカで、文字もくっきりと際立っていました。しかしきっとこれから、また年月が経過するうちには、賢治にあやかって「賢くなりたい」と願う高田高校生の手に撫でられて、これらの文字は以前のように滑らかに擦り減っていくことでしょう。

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