「絶筆短歌」供養碑
1.テキスト
いのちなり
みのりの
に棄てば
うれしからまし
[裏面]
宮澤賢治先生の絶筆を勒し
先祖代々追薦の記念と為す
昭和三十年八月六日 小倉豊文
2.出典
「絶筆短歌」
3.建立/除幕日
1955年(昭和30年)8月6日 建立/除幕
4.所在地
千葉県東金市荒生 小倉家墓所内
5.碑について
JR東金駅から、「東金片貝線」を九十九里浜の方へ向かって5km少し行ったところ、「大沼入口」というバス停の南方に、小倉家の墓所があります。
その敷地の一角に、家代々の墓碑群と向かい合って、賢治の「絶筆短歌」の一首を刻んだこの碑が建てられています。素朴ながら深い味わいがあり、花立てに刻まれた賢治画のミミズクも可愛らしいです。
この供養碑は、歴史学者・宮沢賢治研究家の小倉豊文氏が、広島の原爆十周年にあたる1955年8月6日に、建立・除幕されたものです。
小倉氏の一家は広島で被爆し、奥様は8月19日に原爆症で亡くなられました。
小倉豊文氏は、その被爆体験を1948年に『絶後の記録─広島原子爆弾の手記』として刊行し、海外でも広く読まれました。亡くなった奥様に宛てた書簡体で記されたその詳細な手記は、世界初の原爆のルポルタージュでもあります。
小倉氏の賢治研究の成果は、『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』にまとめられ、第二回宮沢賢治賞を受賞されました。本業の歴史学者としては、『聖徳太子と聖徳太子信仰』などの著書があり、太子の生前の呼称が「厩戸王」だったという現在の学界定説を、最初に提唱された方です。
小倉豊文氏の生涯については、「小倉豊文流「宮沢賢治葬」」という記事にまとめましたので、お読みいただけましたら幸いです。
このあたりには、1926年から1961年まで「九十九里鉄道」という小さな軽便鉄道が走っていて、現在も近くには軌道跡が残っています。
あと少し東に行けば、九十九里浜に出ます。
九十九里浜・片貝海岸