「絶筆短歌」歌碑
1.テキスト
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
賢治
2.出典
「絶筆短歌」
3.建立/除幕日
1992年(平成4年)7月15日 建立/除幕
4.所在地
花巻市城内 鳥谷ヶ崎神社
5.碑について
鳥谷ヶ崎神社は花巻市街の中心部にありますが、北上川のほうからいくと、かなりの坂道をのぼることになります。小高い丘の上にあって、東方の眺望が広がります。
1933年9月17日から19日までの三日間、花巻の町はこの鳥谷ヶ崎神社の祭礼でにぎわいました。
この年は、くしくも宮澤賢治が生まれた1896年と同様、三陸地方は津波による大きな被害を受けましたが、稗貫地方は空前の豊作にわいていました。病床にあった賢治も、祭礼の三日間は家の門口に椅子を出して、神輿や人の波をうれしそうに眺めたとのことです。
9月19日、祭りの最終日も快晴でした。賢治は、この日の夜に「お旅屋」から丘の上の鳥谷ヶ崎神社に還御する神輿を拝みたいと言いました。
そこで家族は何とか彼の希望をかなえてやろうと、弱った賢治を門口まで運び、神輿を待っていましたが、夜になってあたりは徐々に冷えこんできます。母イチは心配して、賢治に部屋に戻ることを勧めましたが、「だいじょうぶ、ええんすじゃ」と言って、彼は最後まで屋外で神輿と人の列を見送りました。
9月20日の朝、やはり前夜の冷気がきつかったのか、賢治の呼吸は明らかに苦しくなりました。往診に呼ばれた医師は、急性肺炎と診断しました。Schub と呼ばれる、結核の急性増悪です。
この日賢治は、のちに「絶筆」と呼ばれることになる二つの短歌を、半紙に墨書しました。(そのうちの一つが、この碑になっています。)
夜7時頃になって、ひとりの農民が肥料相談に訪れました。家族が賢治に伝えると、「そういう用ならぜひ会わなくては」と言って、彼は服を着替えて二階から降りてきて、ていねいに話を聴きはじめました。いつ終わるとも知れぬ話に、家族はみんないらいらしたり、気が気ではなかったということです。
1時間あまり話をしたあと、疲弊しきった賢治は弟の清六氏に抱きかかえられて階段を上がり、二階でやすみました。
翌9月21日、賢治はこの世を去りました。
鳥谷ヶ崎神社境内のしろつめくさ (2002.7.28)