犠牲の牛の話

島地大等像
『生々主義の提唱』口絵より

 浄土真宗を代表する学僧で、盛岡の願教寺の住職を務めていた島地大等(右写真)の講演を、賢治は中学3年の1911年に聴講し、その後も何度か講演会に足を運んだということです。また1918年には、大等が編纂した『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで体が震えるほど感動し、以後この書を「赤い経巻」と呼んで尊崇していました。
 下の短歌は、盛岡高等農林学校1年の1915年夏に、願教寺の夏季仏教講習会に参加した際のものと推測されます。

255a256 本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明

 大等は、若い賢治の信仰や思想に、多大な影響を与えた仏教者の一人と言えるでしょう。

 さて、島地大等は1927年に逝去しますが、その三回忌にあたる1929年に、願教寺の門徒たちが刊行した遺稿集として、『生々主義の提唱』という小冊子があります。

 この遺稿集の目次は、下記のようになっています。

はしがき(四戸慈文)
生々主義の提唱(島地大等)
四月八日(島地大等)
五月二十一日(島地大等)
報恩講さまお迎へのために(島地大等)
勧学逍遙院島地大等和上伝(白井成充)
島地先生の思ひ出(池田和市)
懺汗録(白藤慈秀)

 くしくもここには、賢治と様々な縁のあった人々の名前が見られます。

 遺稿集編纂の中心を担い、「はしがき」を書いている四戸慈文は、盛岡で紳士服仕立て業を営む人でしたが、熱心に浄土真宗を信仰し、賢治の父政次郎と親しく交流していたということです。
 巻末に「懺汗録」という文章を寄せている白藤慈秀は、ご存じのように花巻農学校における賢治の同僚で、いくつかの作品にも顔を出しています。1926年3月に賢治が学校を退職した際には同時に辞め、後に願教寺の院代に就任しました。
 そして、この小冊子の装幀を担当したのは、四戸慈文の娘で、当時新進画家として活躍を始めていた、深沢紅子でした。

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『生々主義の提唱』表表紙と裏表紙

 上の「生々」の文字は島地大等のものだそうですが、梅の花の模様が、深沢紅子の筆によるものなのでしょう。

 深沢紅子こうこは、同じ岩手県出身の画家で、賢治の『注文の多い料理店』の挿画を描いた菊池武雄とも親しく交流していて、東京の吉祥寺では菊池と隣同士で暮らしていました。1931年9月の賢治上京時には、菊池が留守にしていたため、深沢が賢治と応対しています。

 それはそれは暑い日の真昼のことでした。昭和六年、当時武蔵野の吉祥寺に住んでいた私の家に、つめ衿の白い麻の服を着た人が訪ねて来ました。
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これをあずかってください」
 新聞紙にくるんで細いひもを十文字にかけた平たい包みを二箇、さし出されました。それが、この本を書いた宮沢賢治だったのです。
 おとなりの菊池さんというのは、賢治と同じ岩手県出身の画家で、賢治とは早くから親しく、賢治の最初の童話集、『注文の多い料理店』のさしえを描いた人です。その菊池さんとは、私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいました。その日の宮沢さんの頬は少し赤く見えました。私は暑さの為だろうと思い、またその頃の吉祥寺は東京市街からは一時間以上もかかる所で、家にもあいにく誰もいませんでしたが、お上がりになって少しお休みください──と申しましたが、宮沢さんは「ここで水をいただければ結構です」と言われ、玄関に立たれたままでした。
 ものの十分、私が宮沢賢治に直接会ったのは、この時ただ一回きりですが、このあと間もなく何度目かの発病で、神田の下宿先で倒れられ、二年後に亡くなってしまわれました。(深沢紅子『追憶の詩人たち』pp.124-125)

 また深沢は、自分の父から聞いた賢治については、次のように書いています。

 菊池さんだけでなく、私の身辺には、賢治を直接知っていた人が沢山いました。私の父は賢治のお父さんと、信仰上の友達でした。賢治が清養院というお寺に泊まっていたころからよく知っていました。父はある時、「花巻の宮沢さんの息子さんは、非常によく出来る人なそうだが、ひまさえあれば山ばかり歩いているそうだ」と言っていました。また中学校の同じ寄宿舎にいたという友達は、「宮沢さんは、階段の下のランプ置場で、いつもだまってランプのほやを磨いていた」(深沢紅子『追憶の詩人たち』p.126)

 ということで、この小冊子を制作した人々と賢治のつながりを見ると、島地大等と四戸慈文は父の信仰の縁、白藤慈秀は賢治の仕事上の縁、深沢紅子は父の信仰関係に加えて、菊池武雄を介した芸術家仲間としての縁もあったということになります。何重かのネットワークが、たまたま重なり合った一点にこの本が位置しているわけで、何か不思議な因縁を感じるところです。

 そしてきっとこの小冊子は、四戸慈文から政次郎を介して、宮澤家にも置かれていたことでしょう。

 ところで、この遺稿集のタイトルにもなっている「生々主義の提唱」という島地大等の文章は、1926年(昭和元年)11月にラジオ放送された講演の原稿だということです。
 「生々主義」というのは、人間が生きる上での心がけとして島地大等が唱えていた考え方で、「生々せいせいとは自分だけ生きるのでも、他人をのみ生かすのでもない。自分も生き人をも生かす、自他共に生くるの道であります」と説明しています。利己主義に陥らないようにするのと同時に、あまり無理のある利他主義や自己犠牲も避けて、自己も他者も尊重して共に生きよう、という感じでしょうか。
 ここで島地大等は、「犠牲」について論じる中で、神に捧げられる犠牲の牛の寓話を記しています。

 荘子の中にある寓話を想出おもひだしました。それはかう言ふのであります
ある牧場に、お友達と一処にはなしがひせられて居つた一匹の牛がありました。或る日、神様の前へ、犠牲いけにへ即ちお供物くもつとして、引出さるゝことになりました。その時から、今迄とは待遇がかはり、御馳走を食べさせ、温浴ゆあみをとらせて体を清めその上ならず錦繍あやにしきせて飾り立てゝくれる、牛君もすこぶる御恐悦でした。さて引かれて行くことになつたときその牛は、見すぼらしいお友達を顧み、さもをごり顔にかつ愉快相ゆかいさう出懸でかけました。愈々いよいよ神前の儀式を行ふことゝなり、大牢と云ふ御馳走の一段となり、この牛が屠殺ほふりころさるゝことになつて俄に己の悲惨みじめなる運命に気付き、今迄の喜も一場の夢と化しましたので、後悔言はむかたなく、人間ならぬ牛も地団太踏むで嘆き悲しみ、こんなことなれば、寧ろ牧場の見すぼらしい生活の方が、んなに仕合せか知れないと、泣き悲しむだと云ふお話なのであります。(『生々主義の提唱』pp.3-4)

 私はこの箇所を読んで、賢治の童話「〔フランドン農学校の豚〕」を連想しました。

 「〔フランドン農学校の豚〕」に登場する豚も、最初は自分が殺されることを知らず、つかの間の幸福を味わっていたのです。農学校の生徒が、自分のことを触媒としての白金にも相当すると言っているのを聞くと、豚は自分の幸福を感じて「天上に向いて感謝し」、「大きな口を、にやにや曲げてよろこんだ」りしていました。
 この豚の様子は、上の犠牲の牛が丁重な扱いを受けて、「すこぶる御恐悦」で、「をごり顔にかつ愉快相ゆかいさうに」しているところに、よく似ています。

 その後、豚は自分が殺される運命にあることを知ると、「いやです、いやです。どうしてもいやです」と泣き叫び、強制肥育をされる際には「あらんかぎり、怒鳴ったり泣いたり」しました。
 一方、「生々主義」の犠牲の牛も、「後悔言はむかたなく」、「地団太踏むで嘆き悲しみ」、牧場の生活を思い出しては泣き悲しんだのです。

 このような類似を見ると、ひょっとして賢治は島地大等のこの寓話にヒントを得て、「〔フランドン農学校の豚〕」を着想したのだろうかとも思えてきますが、大等がこの講話をラジオで行ったのは1926年11月、遺稿集が刊行されたのは1929年11月であり、童話の初期形が書かれたと推測される1922年後半~1923年前半よりも、かなり後のことです。したがって、賢治が「〔フランドン農学校の豚〕」を、この講話そのものから着想したと考えることはできません。
 しかし、島地大等はこの講話以前にも、自らが提唱する「生々主義」について、何度も話をする機会はあったはずですし、若い頃から何度も大等の話を聞いていた賢治が、どこかでこういう話を耳にしていた可能性は、ありえます。
 もしそうであれば、賢治が「〔フランドン農学校の豚〕」を構想する上で、この寓話は大まかな枠組みを与えてくれることになり、そこに学校の実習で豚を飼育した経験や、「家畜撲殺同意調印法」というユニークな発想が盛り込まれていったのではないかと、考えることもできます。

 ちなみに島地大等は、上の犠牲の牛の寓話は『荘子』の中にあると言っていますが、実は『荘子』には、荘周が王から仕官を請われた際の断りの言葉として、下のような話が掲載されているだけなのです。

或るひと荘子を聘す。荘子、其の使いに応えて曰わく、子は夫の犠牛を見たるか。衣するに文繍を以てし、やしなうに芻菽すうしゆくを以てするも、其の牽かれて太廟に入るに及びては、孤犢たらんと欲すと雖も、其れ得べけんやと。

(口語訳)ある人が荘子を召しかかえようとしたが、荘子はその使いの者にむかってこう答えた。「君はあのお供えの犠牲の牛を見たことがあるだろう。美しい縫いとりの着物を着せられ、まぐさや豆のごちそうで養われているが、さて引かれて祖先の霊廟に入るだんになってから、ただの子牛になりたいと思っても、もうだめではないか。」(岩波文庫:金谷治訳注『荘子』第四冊pp.193-194)

 すなわち『荘子』には、犠牲の牛の行動や心理など細かい描写は書かれておらず、島地大等の話にはまた別の出典があるのかもしれませんし、これは大等自身による脚色なのかもしれません。