賢治の手帳

 今年もあと残された日がだんだん少なくなり、本屋の一角や文房具売り場などには、来年用の手帳がいろいろと並ぶ季節になりました。
 そんな中でたまたま目にしたのが、日本における「手帳の歴史」という年表です。これを見ると、1917年(大正6年)の項に、「背広の手帳に入る小型の手帳が販売される(サラリーマンのステイタスとされる)」という記載があります。

 賢治の作品では、まさにその1917年の9月、盛岡高等農林学校3年生の時に江刺郡地質調査に赴き、剣舞などに出会った折の短歌「種山ヶ原七首」の中に、次の一首がありました。

白雲は露とむすびて立ちわぶる手帳のけいも青くながれぬ (599)

 その後、1921年から農学校の教師になると、「戸外に出るときも賢治は首からつるしたシャープペンシルを取り出して、随時随所で小型の手帳にメモしていた」(「新宮澤賢治語彙辞典」)という有名なスタイルで登場します。

 ここでちょっと、シャープペンシルの歴史はどうなのかと思って調べてみると、こちらのページによれば、後の「シャープ」の創業者である早川徳次が1915年(大正4年)に日本で初めて制作し、「早川式繰出鉛筆」として売り出したが、「最初は非常に不評で、全く売れませんでした。」とあります。

 手帳にしてもシャープペンシルにしても、世に出たもっとも早い時期から、東北の片田舎において愛用していたわけですね。
 賢治のハイカラぶりがきわだって感じられます。

 賢治の童話の登場人物も、次のような調子です。「グスコーブドリの伝記」では、「ブドリもふところから、いままで沼ばたけで持っていた汚ない手帳を出して図を書きとりました」とあったり、「かしはばやしの夜」では、「画かきは、赤いしやつぽもゆらゆら燃えて見え、まつすぐに立つて手帳をもち鉛筆をなめました」とあったり、「月夜のでんしんばしら」では、「電気総長」が「おれはちやんと手帳に書いておいたがね」と言ったり、「耕耘部の時計」では、「赤シャツの農夫は炉のそばの土間に燕麦の稈を一束敷いて、その上に足を投げ出して座り、小さな手帳に何か書き込んでいました」り、「さるのこしかけ」では、「小猿の大将は、手帳のやうなものを出して、足を重ねてぶらぶらさせながら、楢夫に云ひました」とあったり・・・、みんな手帳を愛用しているのです。

 晩年になって、東北砕石工場のセールスマンとして東奔西走していた時も、最後の日々を過ごした病床の中でも、いつも賢治は手帳を持っていました。
 若い日には活動的なアウトドア派としてその携帯性を重視したのでしょうが、病に臥してからは、苦しくて起きられない時には寝たままでも書きつけられるという、また別の意味で愛用していたわけです。

 現存している賢治の手帳は、有名な「雨ニモマケズ手帳」をはじめ、1928年頃から1933年頃までの間に使っていたと思われる、15冊です。5年間で15冊とは、さすがに多いですね。
 もっと若い頃の手帳も残っていたら素晴らしいのにと思いますが、残念ながら存在しないようです。

「雨ニモマケズ手帳」