盛岡から、北へ(3)

 天気はまだなんとか持っています。しかし、ホテルの窓から昨日は見えた箱ヶ森や東根山に至る岩頸列は、 今朝は雲に覆われて見えません。

 チェックアウトをすませると、岩手医大や岩手銀行のあたりを少し歩いてから、盛岡駅へ向かいました。駅ビルに入る寸前に、 とうとう雨がぱらぱらと落ちてきました。
 今回の旅行を企画した当初の案では、今日は青森県内に建てられているある詩碑を見学する予定だったのですが、 お盆ということで先方のご都合が悪く、それはまたの機会にということになりました。そのかわり今日は、八戸方面に寄ってみます。

 賢治は1926年8月に、妹シゲ、クニと甥の純蔵を連れて、八戸へ二泊三日の旅行をしています。この時に彼ら一行が宿泊した旅館は、 妹からの聴き取りにもとづくこれまでの堀尾版年譜では、「陸奥館」ということになっていました。しかし後年の調査では、 このような名前の旅館は当時の八戸に存在しなかったことがわかり、実際のところは不明とされています。
 ただその後、妹たちの証言にある、(1)二階の窓からすぐ下に海が見えた、 (2)最初はお金がないと思われて蒲団部屋のようなところに通された、(3)帰り際に、鯨のひげで作ったお土産をもらった、という部分が、 いずれも鮫地区にある「石田屋旅館」の様子にぴたりと当てはまることから、最近は石田屋説が有力になっているようです。今回は、 その旅館を見てみようと思ったのです。

 八戸までは東北新幹線で、八戸からは八戸線に乗り換えて鮫駅に着くと、11時30分でした。「この駅はきりぎしにして…」 と賢治が書いた駅です。連絡橋からは、灰色の海とウミネコが見えます。
 駅舎から出ると、細かい雨が降りそそいでいますが、とりあえず傘をさすほどではなく、歩いて北東の方角に向かいました。 街道から海の方向へ小さな路地を入って、このあたりと思しきところを歩いて見ますが、旅館の看板は見当たりません。
 ちょうど通りかかった年輩の女性に尋ねてみると、「ああ石田屋さん…、今はもうやっておられるか…。」と言って、 私を案内して一緒に歩いてくださいました。教えていただいた建物は、古くて由緒のありそうなものでしたが、旅館としての看板は出ておらず、 たしかに今は営業していないのかもしれません。お礼を言って、そのあたりを写真におさめると、雨が本降りになってきました。

 せっかくここまで来たので、賢治も訪れたという蕪島にも行ってみることにして、傘をさして港ぞいの道を歩きました。 お盆のためか天候のためか、漁船は港いっぱいに繋がれて静かに停泊しています。蕪島では、すぐ近くまで寄っても逃げないウミネコたちを、 しばらく眺めました。
 もと来た道を鮫の駅まで帰ってくると、雨脚がますます強まってきたので、これ以上の動きはあきらめて、八戸に戻ることにしました。
 八戸駅では、遅い昼食に「いかうに丼とせんべい汁セット」を食べて、今は駅横の待合室で、これを書いています。今晩は夜行列車に乗るので、 ここでいったん早めに今日の分の更新しておきます。
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 さて、隣にあった自販機のコンセントからパソコンに充電をさせてもらって今晩の準備を整え、八戸駅から青森行き特急「白鳥」に乗りました。
 時刻こそ違いますが、80年前の「青森挽歌」の行程です。高校生の頃からこれまで何度となく地図で眺めていた、「乙供」「千曳」 などの駅が、現れては消えていきます。雨もほぼ上がったようです。

 野辺地を過ぎて浅虫温泉のあたりに差しかかると、列車の右側の窓から薄い夕焼けが見えました。賢治の言う「汽車の逆行」 の解釈はよくわかりませんが、少なくともここでは、列車は本当に南に向かって進んでいることを実感しました。

 青森では、次の列車までにかなり時間があったので、駅前の「じょんがら亭」という居酒屋に入って待つことにしました。 いかの味噌焼きやつぶ貝のつぼ焼きを食べながらだったのですが、気づいたら「じょっぱり」という津軽の地酒を6合ほど飲んでいました。

 店を出て青森駅に戻ると、津軽海峡線22時45分発の急行「はまなす」に乗りました。シートに座ると、 酔いのおかげもあってすぐに睡りに落ちました。