春谷暁臥 詩群
1.対象作品
『春と修羅 第二集』
335〔つめたい風はそらで吹き〕1925.5.10(下書稿手入れ)
337 国立公園候補地に関する意見 1925.5.11(下書稿(三)手入れ)
2.賢治の状況
賢治は1925年2月、森 佐一 と名乗る詩人から、「岩手詩人協会という会を作るので加入してくれないか」という手紙を受け取りました。
この勧誘に対して、賢治は謙遜して丁重に辞退しましたが、その後、二人の文通はつづくことになります。
森氏が別の筆名で発表していた詩を賢治もすでに読んでいたことがわかり、「尊敬していた」むねも、書き送っています。
まもなく賢治は、森 佐一 氏を盛岡に訪ねました。しかし、そこに現れたのが、まだ中学生の少年であったことに、彼はぼうぜんとしてしまいました。「『これは変だ、何か、まちがったぞ』というような顔になって、しばらく私の顔をジーッと見ていた」と、後年 森氏は書いています。
時に賢治は28才、佐一は17才ですから、年齢ではちょうど賢治の農学校の教え子と同じような関係にあたりますが、賢治はこの早熟の詩人が、『春と修羅』のほんとうの理解者であることも発見し、二人の交友は、さらに深まりました。
上の三つの作品は、この年の5月に賢治が佐一を誘って、小岩井駅から小岩井農場を抜けて、岩手山麓を西根の方へ向かうという、一泊(野宿)二日の徒歩旅行をした間に、スケッチされたものです。
「三三五 〔つめたい風はそらで吹き〕」には、一日目の野宿の夜の様子が記され、「三三六 春谷暁臥」には、翌朝の目覚めの情景が描かれています。本文中に「佐一」という固有名詞まで書き込んであるのは、やはりこの体験が、賢治にとっても大切なものだったのだろうと思います。
松の枯葉のたまったところを「高原特製のすばらしいベッドですよ」と言って勧めたり、その寝床に入ってから「岩手山麓、無料木賃ホテルですナ」と笑ったり、賢治の様子は佐一にとっても驚きの連続でした。
「この夜行中、私は全く恐怖の感覚を持たなかった。岩手山や山麓の主(ぬし)のような人と歩いているという安心感があった」と、佐一は後で回想しています。
「三三七 国立公園候補地に関する意見」は、二日目の日中に焼走り熔岩流あたりを歩いているときの、賢治の空想です。
途中に挿入される「パンをおあがりなさい」というフレーズは、賢治が食料として、まるのままの食パン一斤を「土いろのハトロン紙に包んで」携行していたことに対応しています。これを勧められた佐一は、それが「西洋料理のフルコースよりも豪華だと感じた」と、書き残しています。
森佐一(筆名森荘已池)氏は、のちに直木賞を受賞し、宮澤賢治研究家としても大きな足跡を残しましたが、1999年に死去されました。