「萬世橋」歌碑

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1.テキスト

甲斐にゆく、萬世橋のスタチオン。
  ふっと哀れに、思ひけるかも。
            賢 治

2.出典

保阪嘉内あて書簡19(1916年〔8月17日〕)より改変

3.建立/除幕日

2007年10月吉日

4.所在地

山梨県韮崎市藤井町坂井 保阪家墓所

5.碑について

 賢治の盛岡高等農林学校時代の最大の親友だった保阪嘉内は、山梨県北巨摩郡駒井村(現韮崎市)の出身でした。
 この歌碑は、韮崎市にある保阪家の墓所に、子孫の方々が建立されたものです。

 墓所の入口には、門のような形で左右両側に「献灯台」が並んでいて、むかって左側にあるのがこの賢治の歌碑で、右側には保阪嘉内とその妻のさかゑの短歌が、刻まれています。(下写真)

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甲州の不二と心を合わせけん、
  岩手の山もはれやかに見ゆ。
           嘉 内

賢治という親友をもちたる
      なき人を
 こころゆくまで偲ぶこの頃
          さ か ゑ

 嘉内の歌は、甲州の富士山と岩手山を重ね合わせ、妻さかゑの歌は、夫嘉内と賢治をともに偲ぶというもので、山梨と岩手、嘉内と賢治の縁が、この墓所にも深く刻まれています。

 さて、歌碑になっている賢治の短歌は、オリジナルでは次のようなものでした。

甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。

 これは、賢治が盛岡高等農林学校2年だった1916年の夏休みに、ドイツ語講習を受けるために東京に出てきていた際に、山梨に帰省している嘉内にあてた手紙に書きつけたものです。
Manseibashi_Station_original.jpg 私鉄甲武鉄道は、1904年に御茶ノ水駅まで東進してきていましたが、1906年に国有化された後、1908年に現在も使われている赤レンガの高架線になります。そして1912年に万世橋駅が開業して、この停車場が東京から甲信越地方へと向かう、ターミナルとなったのです(右写真は往時の万世橋駅 Wikimedia Commons より)。
 一時は万世橋駅前の広場には、市電も慌ただしく行き交い、東京でも有数の繁華街となっていましたが、1919年に東京駅とつながってターミナルとしての地位を失い、1923年には関東大震災で駅舎が倒壊して、徐々に縮小されていきます。ついに1943年、万世橋駅は廃止となりました。

 賢治がこの短歌に詠んだ頃の万世橋駅は、最も立派で賑やかだった時代です。
 東京に出てきて1か月あまりにもなる賢治は、ふと人恋しくなったのでしょうか、万世橋の停車場のことを考えて、「ああ、あの駅から汽車に乗れば、嘉内に会えるんだなあ……」と、しみじみ思ったのかと思われます。

 歌碑に刻まれているテキストは、賢治のオリジナルの短歌とは少し異なっていますが、その由来はわかりません。保阪嘉内が、賢治の歌を長年口ずさむうちに、知らずに変化していたのでしょうか。