「雨ニモマケズ」詩碑

1.テキスト

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ 暑サニ
モ マケヌ
  丈夫ナカラダヲ
       モチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテ
         ヰル
一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ
   野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ
        入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
    小サナ萓ブキノ
       小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモ
      アレバ
行ッテ看病シテ
      ヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ
   稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人
      アレバ
行ッテ
  コハガラナクテモ
        イゝトイヒ
北ニケンクヮヤ
  ソショウガアレバ
ツマラナイカラ
      ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ
    ナミダヲナガシ
サムサノナツハ
   オロオロアルキ
ミンナニデクノボート
        ヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

     松湖 書

     「雨ニモマケズ」について

 「雨ニモマケズ」は、残された手帳の一冊から賢治没後に発見されたものである 後年広く支持され 愛唱されるようになった 執筆時期は昭和六年十一月三日とされる デクノボー精神と「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という悲痛な希願は 私達に限りない希望と励ましを与えてくれる また 十一月三日(当時は明治節)が執筆日である事 カタカナ書きである点も大切である カナ書きがは当時公文書に用いるべき書式でもあった 賢治が病中襟を正して記したこの詩の一言一句を噛みしめながら読むべきであろう そして今後私達が如何に生きるべきか よく考えて欲しいものである
                      埼玉大学名誉教授 萩原昌好

 宮沢賢治(一八九六~一九三三)は盛岡高等農林学校の二年生(当時二十歳)の時 大正五年(一九一六)九月二日から八日までの間 地質見学に秩父地域を訪れている 平成二十三年 旧本陣旅館主 田嶋保日記が発見され 九月四日に生徒一行が当館に宿泊したことが確認された 「日本地質学会発祥の地」と称される秩父地域は地質研究を志す者が多数訪れ 寿旅館はその拠点となっていた
 賢治がこの地を訪れ優れた歌を詠んだことを永く後世に伝え 町の教育文化向上と発展に資する目的で 町と有志の浄財により旧本陣寿旅館のあったこの地に詩碑を建立する 本碑は花巻市林風舎の好意と許しを得て また萩原昌好埼玉大学名誉教授のご尽力により行った    揮毫は名誉町民渡邊松湖先生による

   平成二十四年十二月吉日             小鹿野町
                           小鹿野賢治の会

2.出典

〔雨ニモマケズ〕」(「補遺紙片 II」)

3.建立/除幕日

2012年(平成24年)12月 建立

4.所在地

埼玉県秩父郡小鹿野町大字小鹿野314番地 小鹿野町観光交流館中庭

5.碑について

 1916年9月に賢治は、盛岡高等農林学校の地質学研修旅行で、秩父地方を訪れました。
 この間の行程と宿泊地については、萩原昌好氏が『宮沢賢治 「修羅」への旅』(朝文社)において詳しく考察されましたが、旅行2日目の9月4日の夜は、小鹿野町の「本陣寿旅館」に宿泊したとの推定が、なされています。
 この「本陣寿旅館」は、江戸時代から代官の「出役所」となっていた建物を引き継いで、旅館として営業がなされていたもので、この秩父地方を訪れる地質学研究者の多くが利用していたということです。
 私もたまたま2001年に秩父を訪れた際に、この旅館に泊まったのですが、賢治との縁にちなんでか宿の帳場には、「ビヂテリアン大祭」と「山火」の自筆原稿の複写が置かれていました。
 その後、残念ながら旅館そのものは2008年末に廃業したのですが、その由緒ある建物を小鹿野町が買い取って、2013年にリニューアルオープンしたのが、「小鹿野町観光交流館 本陣」です。改築に際し、館内に残されていた古い資料を町の教育委員会が調査したところ、大正時代の旅館主・田嶋保氏の日記の大正5年9月4日の頁に、「盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊ス」などの記載が見つかり、萩原氏の推定どおり賢治たちがここに宿泊したことが、確認されました。下写真は、「小鹿野町観光交流館 本陣」のページから、その日記の9月4日・5日のページです。

 盛岡高等農林学校に関する記載を抜き出すと、下記のようになっています。

九月四日
盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊す。三田川村皆本沢へ向かい明日は三峰山と。本日午後、盛岡高等農林学校御定宿の看板を掲げる。例の通り梯子を借りる。
九月五日
盛岡高等農林学校関先生、神野先生、生徒二十三人を送る。パン代二円を入れ置く。馬車へよろしく頼み使わす。生徒一行の石をも送る。

 ということで、盛岡高等農林学校の一行が毎年この旅館を「御定宿」としていた様子がうかがわれ、また出発後には生徒たちが採集した「石」を、旅館の方で盛岡へ発送したこともわかります。


小鹿野町観光交流館

 建物の中に入ると、 1階には「郷土ギャラリー」のスペースがあって、「小鹿野歌舞伎」の小道具や、「秩父銘仙」に関する資料が陳列されています。そのまま真っ直ぐ通りぬけると、中庭に出るのですが、そこにこの「雨ニモマケズ」詩碑が建てられています。
 碑の形が面白くて、イノシシか何かをかたどっているのかとも思いましたが、そういうわけでもなさそうです。副碑には、萩原昌好さんが、「雨ニモマケズ」の説明を記されています。