「雨ニモマケズ」詩碑
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1.テキスト
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニ
モマケヌ
丈夫ナカラダヲ
モチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテ
ヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ
野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ
入レズニ
ヨクワカリ
\ミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サキナ萓ブキノ
小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモ
アレバ
行ッテ看病シテ
ヤリ
西ニツカレタ母アレバ
ハナ
行ッテソノ
稲ノ束ヲ
負フヒ
南ニ
死ニサウナ人
アレバ
シヅカニ
行ッテ
コハガラナクテモ
イヽ
トイヒ
北ニケンクヮヤ
ソショウガ
アレバ
ツマラナイカラ
ヤメロトイヒ
ヒドリノトキハ
ナミダヲナガシ
サムサノナツハ
オロオロアルキ
ミンナニ
デコクノボート
ヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サイイフ
モノニ
ワタシハ
ナリタイ
2.出典
「〔雨ニモマケズ〕」(「補遺紙片 II」)
3.建立/除幕日
不明
4.所在地
大阪府貝塚市津田北町 港湾緑地公園 拓本の里
5.碑について
大阪府の泉州地方をずっと南へ行って、海上には関西国際空港が見えてくるあたり、岸和田市と貝塚市の境にある埋め立て地に、芝生の広がる「港湾緑地公園」という公園があります。
この広大な公園の中に、見渡すとあちらこちらに石碑が点在している、不思議な一角があります。
これは、「拓本」を趣味とする地元の方々が、いろいろな文学作品の拓本を手軽に取れるようにと、種々の文学碑を建立して「拓本の里」と名づけた一角なのです。
この「拓本の里」には、種田山頭火の句碑が7基もあるのをはじめ、若山牧水の歌碑も3基あるのですが、それに加えて、このたび賢治の「〔雨ニモマケズ〕」の詩碑も作られたのです。拓本作成を目的としているだけあって、どの碑も作者自筆の文字で刻まれているのが特徴です。
賢治の場合は、あの「雨ニモマケズ手帳」に病床で書かれた彼の筆跡が、そのまま石に刻まれています。
「港湾緑地公園」に行くには、南海電車の「蛸地蔵」という駅で降りて、海の方に向かって15分ほど歩きます。「蛸地蔵」というのは、この地区にある「天性寺」というお寺の通称で、建武年間に高波が岸和田城に押し寄せてきた時、海の彼方から「蛸に乗った法師」が現れて波を鎮めたおかげで城は助かったとか、豊臣秀吉が小牧長久手の戦いに尾張へ向かった隙に、紀州の根来衆・雑賀衆が岸和田城に攻め込んだが、やはり蛸に乗った法師が現れて紀州勢をなぎ倒し、さらに紀州勢が反撃してこの法師を取り囲んだ時には、海辺から幾千幾万の「蛸の大群」が現れて紀州勢を退却させた、などの伝説が残っていることによります。
さすがに、「たこ焼き」をソウルフードとする大阪らしいお地蔵さん、という感じもしますが、個人的に私が住んでいるのは京都の「蛸薬師」の近くなので、少し親近感も湧いているところです。
それはともかくとして、「蛸地蔵」こと天性寺にほど近い「港湾緑地公園」に足を踏み入れ、広大な緑の芝生の上をしばらく歩きまわっていると、ほどなく「雨ニモマケズ」詩碑が見つかりました。
碑は、縦長の直方体の花崗岩でできていて、碑面には手帳に賢治が記した筆跡を忠実に再現して、「〔雨ニモマケズ〕」の全文が三段組みで刻まれています。
したがって、この碑の拓本を取れば、賢治の筆跡そのままの額や掛け軸も出来上がる、というわけですね。
下写真は、この「雨ニモマケズ」詩碑の裏側です。
銅板には、下記のような説明が書かれています。
「雨ニモマケズ」
宮澤賢治
詩稿・手帳・鉛筆書
一九三一年(昭和六年)十一月三日筆
本手帳以外に賢治がこれを「詩」とし
て推敲・浄書を行ったことは一度も
なく、没後に遺品のトランクから発見
されるまで他人の眼にふれることもな
かった。
ここは、大型トラックの疾走する高速道路や、埋め立て地に建ち並ぶ大規模な倉庫や、遠くには高層マンションの見える、人工的な臨海空間ですが、その一角には宮澤賢治の「〔雨ニモマケズ〕」や、種田山頭火の自由律俳句が静かに立ち並んでいて、なかなか不思議な雰囲気が醸し出されています。
南海電車「蛸地蔵」駅舎