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「塵点の劫」歌碑

「農民芸術概論綱要」碑

1.テキスト

塵点の
  劫をし
   過ぎて
  いましこの
妙のみ法に
  あひまつ
   りしを
      宮澤賢治

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経

2.出典

「雨ニモマケズ」手帳 添付小紙片(鉛筆挿し内)

3.建立/除幕日

2010年(平成22年)7月8日 建立/開眼入魂

4.所在地

北海道網走郡美幌町西2条北1丁目 本妙寺境内

5.碑について

 北海道の美幌町の名前は、アイヌ語の「ピ・ポロ」(水多く、大いなる所)という言葉に由来するということです。網走川水系の河岸段丘や氾濫原の上に広がる町で、名前のとおり綺麗な水の豊富な土地です。
 オホーツク海に面した網走市から見ると、しばらく内陸に入った隣にあるのが大空町、さらにそこから内陸に入った隣がこの美幌町ということになりますが、奥まった辺境の地かと思ったら大違いです。ここは、JR石北本線と国道4号線、さらに道道6路線が交わる交通の要衝で、おまけに隣の大空町にある女満別空港までは町の中心部から車で10分という、とても便利な場所なのです。

 この美幌町の比較的中心部に、本妙寺という日蓮宗のお寺があります。

本妙寺正門

 前後に控柱の付いた木造の門をくぐると、正面には石段の奥に立派な本堂があります。そしてその石段の手前の左手に、宮澤賢治の歌碑が建っています。下の写真で、左下の隅に見えるのが、歌碑です。

本妙寺本堂

 「塵点の劫をし過ぎていましこの……」という賢治の短歌が刻まれたこの歌碑は、2010年年7月に建立されました。この本妙寺の第五世住職を務められた岡元錬城氏が、2009年8月に引退された後、「代替わりの記念」として私費で建設されたということです。

 碑の裏面には、下のような「頌辞 並 建碑辞」が、刻まれています。

碑陰

法華経の信奉者
無上道への手引者 宮沢賢治先生
               頌辞 並 建碑辞
呼び捨ては憚る人 そのような敬すべき偉人
尊ぶべき聖者が 宮沢賢治先生であります
先生は詩人 作家 教育者 科学者 農業技
術実践者であられ 何よりも 真剣誠実をき
わめ 経験恭敬をきわめる仏教徒であり 厳
粛で純真で熱誠あふれる法華経信奉者であら
れました 「法華文学ノ創作」者先生が 衷
心から願い望まれた法華経帰依にもとづく
「ほんとうの幸せ」「世界全体の幸福」への
道が 正しくまっすぐに拓かれ行くことを
心からの祈りをこめ 謹んでこの碑を当山の
浄域にお建ていたします
                       合掌
     建立開眼入魂年次
      平成二十二年七月八日大聖顕正会
     建立丹精献納施主
      立正山本妙寺伝燈沙門第五世
      良学院日敬   俗称 岡元錬城

附言  碑文 お題目と法華経値遇法悦の絶唱は「雨ニモマケズ」
     手帳より 詠歌は同手帳表紙背端鉛筆挿しへの小紙片 と
     もに鉛筆書きの拡大模写 署名は書簡封筒ペン書きから
     月を背にした梟の墨書戯画を添えた

 岡元錬城氏が、宮澤賢治に対して抱いておられる思いは、もう上の「頌辞」をお読みいただければ、あふれんばかりに伝わってきます。
 また岡元氏は、東京の「宮沢賢治研究会」の会員でもいらっしゃるということで、1996年にはその機関誌『賢治研究』の賢治生誕百周年記念号(第70号)に、会員からの「賢治へのメッセージ」として、次のような文も寄せておられます。

賢治先生。先生の仏意表白の真剣誠実な届けもの「法華文学」。その文の底に秘められ沈められている鉱脈無尽の実際が多くの味読者鑚仰者によって発見・開発・発揚され、人々が仏意に触れつつあります。先生の願いと真実が正しくまっすぐに知られつつあります。

 日蓮の遺文に関する研究書を多数刊行されている岡元錬城氏ですが、その著書『日蓮聖人遺文への招待―春夏秋冬―』(さだるま新書)の末尾には、次のような文章を書いておられます。

 私なりの大願・大望がある。その一つは「日蓮聖人研究」であり、さらなる一つは「宮沢賢治研究」である。前者は著書も十冊ほど公刊し得たから一応はようやく一区切りつきつつあるが、しかし無尽の対象ゆえ、おそらくは未完に終わる予感がしている。予感ではなく、未完に終わるに決まっている。一方、日蓮聖人研究に没頭してきたから、賢治研究は本格的には未開拓、手つかず状態である。三百冊くらいはあるであろう関係文献だが、書庫にならんではいるが多くは未読に属する。書棚に向かうとそれらの賢治本が淋しげに見える。本も淋しかろうが大願成就に接近できぬ私自身もとにかく淋しい。法華経信仰、その“無上道への手引き”として賢治の作品があり、信仰に生きた生涯の軌跡がある。学ばねばならない。

 今や住職を引退された岡元錬城氏は、きっとその後は心ゆくまで賢治研究に勤しんでおられることかと思います。

◇               ◇

 さて、この碑に刻まれている賢治の短歌は、あの「雨ニモマケズ手帳」の「鉛筆挿し」に丸めて差し込まれていた、小さな紙片(下写真)に記されていました。碑には、歌の後に「南無妙法蓮華経」という題目が三回記されていますが、これは賢治自身がここに記したものではありません。

鉛筆挿しに差し込まれていた紙片

 文字は、やや震えたような弱々しい筆跡で記され、賢治はおそらく病床で横になったまま、これを書いたのではないかと思われます。
 しかしその線の弱々しさとは全く対照的に、そこに謳われている内容は、宗教的に強烈な、「法悦」とも言うべき心境です。

 「妙(たえ)のみ法(のり)」とは、賢治が亡くなるまで尊崇した「妙法蓮華経」のことで、「塵点の劫」とは、下記のようにとにかく猛烈に長い時間のことです。
 法華経如来寿量品には、「五百塵点劫」という話が出てきて、日蓮は「釈迦御所領御書」などにおいて「過去五百塵点劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり」と述べていることから、釈迦が成道してから経過した時間のことを指していると解釈されるようになりました。これがどれほど長い時間かというと、「五百塵点劫の昔の計算の詳細」というWebページにこれを試算してみた結果が載っていますが、結論としては「10270年」というオーダーになるということです。現在、自然科学的に推定されている宇宙の年齢が、138億年≒1010のオーダーですから、ちょっと想像もつかないような数字ですね。

 それはともかくとして、賢治がここで謳っているのは、五百塵点劫の昔に釈迦が悟りを開いて法華経を説いてから、それとは別に世界のどこかで、賢治の前世の前世の前世の前世の前世の・・・という生命が延々と輪廻転生を繰り返し、およそ10270年の経過の後に、銀河系の地球の日本の岩手県に生まれた「宮澤賢治」という名の生命において、やっと法華経とめぐり会えたのだ、という気が遠くなるような「喜び」のことなのです。
 一つの生命の長さを100年としても、これまでに10268回ほどの輪廻転生を繰り返したわけですが、今生において法華経と出会えたからには、今度こそは、これまでとは違った「死」が迎えられるだろうという、そんな心境なのだろうと思います。

 そしてその喜びを、死を覚悟しながら、病床で震える手で書きつけたのが、この歌だったというわけですね。