「丹藤川」碑
1.テキスト
「宮澤賢治 碑」
宮澤賢治は、大正五年五月のはじめ、親友・高橋秀松と
ここ南山形の地より、道なり約十六・六キロの柴沢川の丘陵
地にあった農家・千葉家に泊まった。その時の様子を作品
にしたのが短編「丹藤川」である。
火皿は油煙をふりみだし、炉の向ふにはこの家の
主人の膝が大黒柱を切って投げ出しどっしりがたり
と座ってゐる。
その息子らは外の闇から帰って来た。肩はばがひろく
けらを着て馬を厩へ引いて入れ、土間でこっそり飯をたべ
そのままころころ寝てしまった。
もし私が何かまちがったことでも云ったら、そのむすこ
らのどの一人でもすぐに私を外のくらやみに連れ出す
だろう。
火皿は黒い油煙を揚げその下で一人の女が何かしき
りに仕度をしてゐる。どうも私の膳をつくってゐる
らしい。それならさっきもことわったのだ。
ガタリと音して皿が一枚床の上に落ちた。
主人はだまって立ってそっち行った。
三秒ばかりしんとした。
主人は席へ帰ってどしりと座った。
どうもあの女はなぐられたらしい。
音もさせずに撲ったのだな。その証拠には土間が
いやに寂かだし、主人のめだまは黄金のようだしさ。
2.出典
「丹藤川」(「初期短篇綴等」)全文
3.建立/除幕日
2004年(平成16年)6月30日 建立
4.所在地
岩手県岩手郡岩手町大字川口第28地割 南山形小学校グラウンド向かい
5.碑について
碑になっている上記のテキストは、全集では「初期短篇綴等」に収められた「丹藤川」という短篇の全文です。いくら短篇とはいえ、詩でも俳句でも短歌でもない散文作品の全文碑というのは、他の作家の文学碑でも、ちょっと例がない珍しいものではないでしょうか。
「初期短篇綴」とは、賢治の初期作品のうち作者が何かの目的にために生前自分で綴じあわせていた10篇の総称で、「校本全集」からこう呼ばれるようになっています。いずれも草稿に、鉛筆による日付と青インクによる日付とが書き込まれており、「花椰菜」という一篇を除き、鉛筆日付は大正5年から8年、青インク日付は1920年5月から9月におさまっています。
現在、これらの日付の意味についてまだ定説は得られていませんが、鉛筆日付は作品のもとになった出来事があった日付であり、青インク日付はその第一次稿が成立した日付ではないかという推定が有力です(『宮沢賢治「初期短編綴」の世界』榊昌子 など)。
「丹藤川 」では、鉛筆日付は「大正五年」、青インク日付は「1920 5.-」となっています。すなわち、賢治はこの作品に描かれた体験を、大正五年にしたのではないかと推測されます。
そして、この推測とちょうど一致するように、賢治の同級生高橋秀松は、1916年(大正5年)の5月の、次のような思い出を書き残しています(「賢さんの思い出(一)」)。
「北上山地探訪の時は、土曜の午後から出掛け姫神の下のあたりを通つて夜道となつた。山道は尽きて広い野原に出た。先途に、ボーツと明るい一角が見えいい香りがしてくる。花盛りの鈴蘭群生地であつた。二人は嬉々として花の上に寝転んで考えた。賢さんは、今夜は松の大木の下に寝るとしようかと、松の大木は暗くて見付からなかつたが三・四反もある耕地を発見した。賢さんはしめたと一言いうて畑があれば近くに人家がある筈だと畑地通いの小道を辿つて谷に下りた。しかし、流れがあるばかりで人家が見当たらない。土橋の上でねる事にきめていたら川下の方から一老人が現われた。「オメエサンダチ、ナニシテル、こん処で寝たら狼にやられるぞ、オラノウチサオデンセ」と親切な言葉に導れて、二人は老人について川上に上つたら、大きな一軒家があつた。」
つまり、作品「丹藤川」において描かれているエピソードは、この「大きな一軒家」での一夜の出来事なのだろうと思われます。
町で育った裕福なお坊ちゃん学生が、山奥で偶然出会った親切な老人にいざなわれ、一種の「異界」にさまよいこみます。一夜の宿と食事を提供してもらったことに感謝はしながらも、そこで体験した顛末に関して、賢治は畏怖のような感情を持って書きとめています。
「主人のめだまは黄金のよう」という表現は、「山男の四月」や「祭の晩」などで、「山男」のめだまがいつもこう描写されていたことを連想させます。賢治は、「里」で生活する「常民」とは異なった、「山男」のイメージをこの人物に重ね合わせていたのではないでしょうか。
ちなみに、この「丹藤川」が後年に推敲されて「家長制度」と改題されると、作品の主題は、上記のような「不思議な異界体験」ということよりも、理不尽なドメスティック・ヴァイオレンスの背景に「家長制度」を見るという、より社会的な視点に移っています。いろいろな見方はあるでしょうが、私自身は「丹藤川」の方に魅力を感じます。
さて、賢治たちはこの一夜を、丹藤川沿いのいったいどの場所で宿泊し、このような体験をしたのかということに関して、これまで小沢俊郎氏や奥田弘氏などが調査研究をしておられます。1993年の奥田弘著「奥丹藤川紀行」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第6号所収)においては、まだ確定はされていないものの、丹藤川上流の柴沢川と呼ばれる部分にある「牧場管理の大きな家」の存在が注目されていました。今回の碑の建立にあたっては、この家(千葉家)こそが作品の舞台であったと、同定されているようです。
碑の裏側には右のような説明地図が付けられています。
この地図では、北が下方向になっているのでちょっとわかりにくいのですが、もっと大きな位置関係については、下の地図をご参照ください。
碑の説明文では、賢治たちは下地図で姫神山の北西にある川口から、おおむね丹藤川をさかのぼるルートでこの碑のある場所を通り、千葉家に至ったと推定しています。一方、前記の奥田弘氏は、盛岡から旧小本街道を通り、姫神山の南側から行ったと考えておられます。前者ならば、盛岡から川口までは東北本線で行ったのでしょう。後者は、賢治がその後も通った、外山高原に行く道でもあります。
川口ルートか、盛岡ルートか、どちらの説が正しいのかこれらの資料だけからはなんとも言えませんが、高橋秀松の「姫神の下あたりを通つて」という描写は、どちらかと言えば盛岡ルートの方にあてはまる感じがします。また、高橋は上記引用の別の箇所で「此の流れは丹藤川の上流だと賢さんから教えられた」と書いていますが、川口から丹藤川をずっとさかのぼって行ったのなら、わざわざこのように教えられるというのは、やや不自然です。
碑が向かい合って立つ南山形小学校は、山あいの小さな学校(右写真)です。山奥にあっても創立は1880年と非常に古く、もしも賢治が川口ルートから丹藤川上流に向かったのなら、その時にはこの小学校の前を通って行ったということになります。
丹藤川上流に至る二つの経路