「南昌山」歌碑

p_66a.jpg

1.テキスト

 まくろなる
石をくだけば
  なほもさびし
 夕日は落ちぬ
  山の石原

  毒ヶ森
南昌山の一つらは
 ふとおどりたちて
  わがぬかに來る

         宮沢賢治

2.出典

歌稿〔B〕 239,240

3.建立/除幕日

1995年(平成7年)3月吉日 建立/6月4日 除幕

4.所在地

岩手県紫波郡矢巾町煙山 「水辺の里」

5.碑について

 「歌稿〔B〕」において、この二首の短歌には「大正四年四月」という日付がついており、これは賢治が盛岡高等農林学校に入学した月にあたります。その前年までの歌が、悩みに鬱々とした調子をおびていたのと対照的に、作品におだやかな明るい色彩が差してくる時期です。
 ただ、この二首だけは、ご覧のように何かさびしさと不安をたたえています。

 二首目に出てくる「毒ヶ森」「南昌山」という山々は、盛岡市の南西約12kmのところにあり、地質学的には「岩頸」と呼ばれるものにあたります。これは、火山の火口の奥で溶岩が固まった後、周囲の山肌が侵食されて露出したもので、鐘やお椀を伏せたような形をしています。
 この二つの山は、上で「一つら」と形容されているように、連なった山並みの一部ですが、晩年の「岩頸列」という文語詩のなかでは、「西は箱ヶと毒ヶ森、 椀、南昌、東根の、/古き岩頸(ネック)の一列に…」と展望されています。
 賢治はなぜか、この「岩頸」という種類の山がお気に入りだったようで、童話「楢ノ木大学士の野宿」のなかでも、ユーモラスに解説をしていました。

 賢治は盛岡高等農林学校に入学してまもなく、南昌山から流れ出る岩崎川の石原を調査するために、この碑のある「煙山」という場所を訪れたようです。碑になっている二首の短歌はその時のものと思われますが、このあたりは実は、賢治が盛岡中学時代には、寮で同室だった藤原健次郎といっしょに、よく遊びに来たところでもありました。

 二人の毎日は、「村童スケッチ」と称される一群の童話に、「藤原慶次郎」と「私」の交流として描かれています。
なかでも、「鳥をとるやなぎ」という話では、「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ」という藤原の言葉をきっかけに、二人は南昌山へ向かって岩崎川の渓流を、わくわくしながらさかのぼっていくのです。
 ところが、この仲のよかった藤原健次郎は、賢治が中学二年のときにチフスにかかって急死してしまいました。

 上の短歌は、その死から約五年後のものになります。高等農林学校に入学してふたたび盛岡に出てきた賢治は、なつかしい南昌山や渓流を訪ねて、親友を偲んだのかもしれません。
 「なほもさびし」という言葉のうしろには、そのような気持ちがこめられているのではないかと思います。

 現在のこのあたりは、「水辺の里」と名づけられて、川沿いにきれいな遊歩道も整備されています。
 賢治たち二人も通ったであろう渓流をさかのぼっていくと、岩頸特有の釣鐘形をした南昌山が、ぬっと目の前に現れました。


碑の横から南昌山を見る (2000.8.28)

権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、
煙山の野原に出ましたら、
向ふには毒ヶ森や南昌山が、たいへん暗くそびえ、
その上を雲がぎらぎら光って、処々には竜の形の黒雲もあって、
どんどん北の方へ飛び、
野原にはひっそりとして人も馬も居ず、
草には穂が一杯に出てゐました。

                            (「鳥をとるやなぎ」より)