「僧の妻面膨れたる」詩碑

1.テキスト

   文語詩       宮澤 賢治

僧の妻面膨れたる    飯盛りし仏器さゝげくる

雪やみて朝日は青く   かうかうと僧は看経

寄進札そゞろに誦みて  僧の妻庫裏にしりぞく

いまはとて異の銅鼓うち 晨光はみどりとかはる

2.出典

〔僧の妻面膨れたる〕(定稿)」(『文語詩稿 五十篇』)

3.建立/除幕日

1997年(平成9年)3月 建立/6月8日 除幕

4.所在地

盛岡市北山 教浄寺境内



5.碑について

 盛岡市街の北部、賢治が通った盛岡中学校(現在の盛岡第一高校)や、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)から少し東の方角に、北山という閑静な地区があり、お寺がいくつか集まっています。
 この詩碑は、その一角の教浄寺というお寺の境内に建っています。私が訪ねた日には、近所の保育園の保母さんが、この碑の前で子どもたちを遊ばせていました。

 1914年頃の賢治は、中学校は卒業したものの家業を継ぐ気にはなれず、しばらく悶々とした日々を送っていたようです。そんなある日、彼は「漢和対照妙法蓮華経」と出会って震えが止まらないほどの感動を受け、また同じ頃に父親から盛岡高等農林学校への進学を許されました。賢治は、一躍将来への希望に奮い立ちます。
 さっそく彼はこの教浄寺に下宿をして受験勉強に励み、めでたく盛岡高等農林学校に首席で合格を果たしました。
 この地味なお寺は、賢治が18歳の春、期待を胸に三ヶ月をすごした場所なのです。


 詩碑になっている文語詩は、例によって賢治が晩年になってから、昔の体験をもとに定型詩の形に創作したものです。
 碑に並んで建つ説明には、次のように書かれていました。

 作中の「僧」は、當山第五十三世住職の、又重琢眞和尚(1848-1930)であり、「僧の妻」は陽夫人(1859-1941)である。
 作品は、寺における日常の「看経」(おつとめ)の様子が、朝の清澄さの中で、平静眞摯な文体で描かれている。
 「かうかうと僧は看経」とあるように、一心不乱な凛とした気迫が堂内に満ち、それを全身に浴び賢治の一日は始まっていたのであろう。
 「僧の妻面膨れたる」も、おっとりとして豊頬な人となりが、「さゝげくる」から「しりぞく」に至る恭々しきかしずきの挙措に彷彿とする。
 そうした本堂における「看経」のごとく、賢治の日々もくり返されていたにちがいないことがうががえよう。
 やがて、賢治の志望は貫徹され、四月六日、盛岡高等農林学校農学科第二部に、首席入学を果した。

 お寺がつけた説明ですから、詩における描写はつとめて好意的な意味に解釈されていますが、私はこの詩から、なんとなく皮肉なニュアンスを感じてしまうのですが、どんなものでしょうか。

 出家して宗教的な勤めを行っている僧とともに描かれているのは、「妻」であり「飯」であり、本来は修行の支障になりかねない「煩悩」に関わります。この二つが象徴する「性欲」と「食欲」に対して、賢治が生涯にわたって 厳しい禁欲を貫いたことは、よく知られています。
 そのような自意識が徐々に芽ばえようとしていた若き一途な受験生は、下宿先の主人の一見清らかに見える宗教生活の裏面にも、なにかアイロニカルなものを感じとっていたのではないかと、私には思えます。
 僧の妻の容貌にしても、上の説明のように「豊頬」と言いかえれば聞こえはいいですが、ふつうに読めば、「面膨れたる」というのはあまり好意的な描写ではないでしょう。
 その妻の物腰は、たしかに「恭々しき」ものかもしれませんが、退出する前にはすばやく寄進札に目をやって、頭の中で算盤をはじくことを忘れません。お寺の台所を預かる立場としては当然のことなのでしょうが、またそれを見逃さない賢治の観察眼もなかなかです。
 この現世的でしっかり者の妻と対比されてしまうと、「かうかうと」看経したり「いまはとて異の銅鼓う」つ僧の所作は、いかにも大仰で滑稽に感じられてしまいます。まじめくさったその振る舞いには、どこか俗っぽさが抜けません。

 一見、厳粛で侵しがたいような朝のお勤めの背後に賢治が感じとったのは、こんな非宗教的な機微だったのではないでしょうか。

 しかし、だからと言ってこの作品全体から感じられるのは、そういった俗物性に対する反感などではなくて、すぐれて「人間的」であるものへの暖かい眼差し、愛とユーモアです。

 雪の白と、青からみどりに変わる朝日が、その人間模様に美しい景色を添えています。