「中尊寺」詩碑

1.テキスト

  中尊寺
            宮沢賢治
七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)
(がい)なすや緑(りょく)の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる

2.出典

「中尊寺〔一〕(下書稿(三))」(『文語詩稿 一百篇』)

3.建立/除幕日

1959年(昭和34年)5月10日 除幕

4.所在地

岩手県西磐井郡平泉町 中尊寺金色堂脇

5.碑について

 「七重の舎利の小塔」とは、中尊寺の有名な「金色堂」のことだそうです。
 ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとします。「銀のかたびら」を身にまとっていますから、そこらの普通の泥棒ではなくて、よほどの大物であることがうかがわれます。
 大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはありません。もちろん拝んだ後には、宝物を頂戴するつもりだったのでしょうが、なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった、という話です。
 どこかの民話にでも出てきそうなシーンですが、とくに中尊寺にこのような逸話が残っているわけではなく、これは賢治の創作のようです。

 この「大盗」の正体については議論があって、面白い説としては、これは奥州藤原氏を滅ぼした 源頼朝 を象徴するものである、という意見があります。(『宮沢賢治 文語詩の森』所収牛崎敏哉氏など)

 1189年、源頼朝は平泉に潜んでいた義経を藤原泰衡に討たせた後、みずから平泉を攻めて、栄華を誇っていた奥州藤原氏を滅ぼします。
 平泉に入った頼朝は、いったんはその金銀財宝に目を奪われますが、供養の目的でその年のうちに永福寺を建立したり、鎌倉幕府としても後に中尊寺に金色堂覆堂を造立するなど、一定の保護をおこないます。
 「大盗=源頼朝 説」では、頼朝の一連の行動が、財宝を簒奪しようとしてやってきたが、結局は畏敬の念をいだいて辞したという、詩の中の盗賊の姿に象徴されていると考えています。

 なによりもこの考え方の背後には、奥州藤原文化を、豊饒な縄文期から、アテルイ、安倍氏と連なる「蝦夷」の伝統の開花としてとらえる感性があります。この観点に立つと、頼朝の「征伐」もたんなる内戦ではなく、「異文化からの侵略」であるわけですし、「侵略者」だからこそ、「大盗」のたとえもふさわしいわけです。

 そして、たしかに宮澤賢治も、さまざまな作品において、ヤマト文化とは独立したものとしての、アイヌ~蝦夷的な文化基層への親和を表現していると、私も思います。

 というわけで、この小さな文語詩の中に、日本列島東北部の固有の文化と、ヤマトからの侵略者に対する賢治の思いが凝縮されているとすれば、それはたいへん興味深いことです。

 しかし、たとえそこまで深読みしなくとも、これは十分に魅力的な作品です。
 文中に直接は登場しませんが、読者はまず題名から潜在的に、「金色堂」を連想します。その背景色に重ねて、「緑の燐光」、「銀のかたびら」、「赭のまなこ」と、絢爛たる原色が塗られていきます。
 登場する「大盗」は、荒々しい野性味と同時に素朴な敬虔さも帯び、これらすべての色彩や人間性は、縄文的-蝦夷的な属性を感じさせます。
 はるか昔のある時に、このような不思議な情景が密やかに存在して、しかしそれは誰も知らず、ただお寺のまわりの鬱蒼とした杉木立だけが、それを見ていたというのです。


中尊寺 金色堂