「宮澤賢治の辞世」歌碑

1.テキスト

    宮澤賢治の辞世

方十里 稗貫のみかも
稲熟れて み祭三日
     そらはれわたる

(いたつき)のゆゑにもくちん
         いのちなり
 みのり
    に棄てば
      うれしからまし

2.出典

「絶筆短歌」

3.建立/除幕日

1982年(昭和57年)9月1日 建立/9月12日 除幕

4.所在地

東京都江戸川区一之江6丁目 国柱会 申孝園

5.碑について

 国柱会本部の建物の横に、「申孝園」と名づけられた庭園があり、歌碑はその一角にあります。
 正直なところ私は最近まで、「国柱会」という宗教法人が、現在もなお存在し、活動しているとは、思いもよりませんでした。

 国柱会とは、田中 智学 氏が、1914年に創設した在家仏教団体で、「純正日蓮主義」を掲げ、非常に国粋主義的な立場を鮮明にしていたことで知られています。
 大東亜共栄圏のスローガンであった「八紘一宇」という言葉は、この国柱会の田中の創案であり、のちに軍部がこれを利用することになりました。
 満州侵略の中心を担った石原莞爾も、国柱会会員でした。

 このような団体に賢治が加入していたという事実は、一部の賢治ファンにとっては、あまり気持ちのよいものではないかもしれません。これを、賢治の「若気のいたり」とみなしておこうという風潮も、かなり根強いように思います。
 しかし、賢治が終生、国柱会の会員でありつづけたのも事実ですし、かなり後になってからも、国柱会の機関紙に詩や歌曲を投稿しています。

 「イーハトーブ」というイメージには、どこか「(作られた理想郷としての)満州国」を連想させるようなものもあるように、私には感じられてしまうのですが、どんなものでしょうか。


 私が国柱会の本部を訪ねたのは、2000年1月のある朝でした。
 あたりの雰囲気にやや緊張しながら、「国柱会のパンフレットのようなものがあればいただきたいのですが」と窓口で言ってみたのがきっかけで、「宮澤賢治がお好きなのなら、賢治に詳しい先生を呼んできてあげよう」ということになって、「国柱会 講師」という名刺を持った方が、わざわざ奥から出てきてくださいました。
 応接セットのある部屋に案内してもらい、お茶も出され、賢治と田中智学について、しばらく話を聞かせていただきました。

 信仰心もなく、どこの馬の骨ともわからないような私に対して国柱会が示してくれた応対は、79年前に、賢治が熱い信仰と情熱を持って国柱会を訪ねたときのそれよりも、はるかに懇切なものであったでしょう。
 1921年1月に、東北から出てきて「下足番でも何でもします」と頭を下げた一文学青年を迎えた「国柱会 講師」の言葉は、次のようなものでした。
 「会員なことはわかりましたが何分突然の事ですしこちらでも今は別段人を募集も致しません。よくある事です。…」 (お茶を出されるどころか)玄関で立ったままの応対だったと、賢治は書き残しています。

 石碑の碑文は、一般には「絶筆短歌」と呼ばれている有名な二首の短歌です。
 碑銘は「宮澤賢治の辞世」となっていますが、この「辞世」という表現になんとも「武士道的」な雰囲気があって、こういうところもいかにも「国柱会らしい」ような気がして、おもしろいです。

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