「塵点の劫」歌碑

1.テキスト

塵点の
  劫をし
過ぎて
 いましこの
妙のみ法に
 あひまつ
   りしを

     賢治

2.出典

「雨ニモマケズ手帳」(鉛筆挿し)

3.建立/除幕日

1961年(昭和36年)10月22日 建立

4.所在地

山梨県南巨摩郡身延町 身延山久遠寺 三門奥

5.碑について

 1931年、東北砕石工場技師の激務で体調を崩しかけていた賢治は、周囲の止めるのも聞かず東京へ出張し、9月20日に高熱で倒れます。死を覚悟していったん父母あての遺書も書きましたが、かろうじて花巻に帰って、病床に就きました。
 この病床において、苦しみつつ書きつけられたのが、いわゆる「雨ニモマケズ手帳」です。あの有名な詩が含まれているために、この名前で呼ばれています。
 この手帳は、生前は存在を知られていませんでしたが、死の翌年になって、革トランクの中から上記1931年の遺書とともに発見されました。

 手帳に記されている内容については、いろいろな人が調べて研究をしていましたが、さらにその後十数年もたったある時、手帳の端の「鉛筆挿し」(下写真)に、小さな紙片が丸めて挿し込まれているのに気づいた人がありました。紙片を取り出してみると、震えたような弱々しい賢治の筆跡で、一つの短歌が書かれていました。
 それが、この歌碑になっている歌です。

 賢治が、心の奥の奧に、そっと秘めていたような歌なのでしょう。

 「塵点の劫」とは、仏教用語で天文学的に長い時間のことです。歌は、悠久の時を越えて、法華経の教えにめぐりあえたという感激を、一途に、素直に謳っています。
 素朴な調べは、まるで中世の「釈教歌」のようです。


 さてこの歌碑は、日蓮宗の総本山である久遠寺の三門をくぐって、右手の奥のほうの杉林のきわに建っています。 碑の文字は、紙片に書いてあった賢治自身の筆跡を写刻してあります。

 碑を拝見するためにこの地に来た私は、久遠寺につづく街道に沿った門前町の一角にある旅館に泊まり ました。町を訪れる人は、ほとんどが日蓮宗の敬虔な信者の方々のようです。
 朝食前に石碑を見に行くと、ちょうど供えられていた花が萎れていたので、いったん戻って旅館の人に花屋さんの場所を教えていただき、朝食後にあらためて出向いて、水を換えて買ってきた花を供え、写真を撮りました。


「雨ニモマケズ手帳」