「塵点の劫」歌碑
【副碑】
1.テキスト
塵点の
劫をし
過ぎて
いましこの
妙のみ法に
あひまつ
りしを
賢治
【副碑】
この歌は法華経の行
者 宮沢賢治(一八九
六~一九三三)の死後
、あの「雨ニモマケズ
」の誌されてある手帳
の鉛筆挿しから発見さ
れたものである。
われわれもまた法華
経を信仰し、一塵の灯
とも点じたいねがひか
らこれを建立したもの
である。
佐藤 寛
2.出典
「雨ニモマケズ手帳」(鉛筆挿し)
3.建立/除幕日
1961年(昭和36年)10月23日 除幕
4.所在地
山梨県南巨摩郡身延町 身延山久遠寺 三門奥
5.碑について
1931年、東北砕石工場技師の激務で体調を崩しかけていた賢治は、周囲の止めるのも聞かず東京へ出張し、9月20日に高熱で倒れます。死を覚悟していったん父母あての遺書も書きましたが、かろうじて花巻に帰って、病床に就きました。
この病床において、苦しみつつ書きつけられたのが、いわゆる「雨ニモマケズ手帳」です。あの有名な詩が含まれているために、この名前で呼ばれています。
この手帳は、生前は存在を知られていませんでしたが、死の翌年になって、革トランクの中から上記1931年の遺書とともに発見されました。
手帳に記されている内容については、いろいろな人が調べて研究をしてきましたが、さらにその後十数年もたったある時、手帳の端の「鉛筆挿し」(下写真)に、小さな紙片が丸めて挿し込まれているのが見つかりました。紙片を取り出してみると、震えたような弱々しい賢治の筆跡で書かれていたのが、この歌碑の短歌だったのです。
賢治が、心の奥の奧に、そっと秘めていたような歌なのでしょう。
※
「塵点の劫」とは、仏教において物凄く長い時間を表す表現で、たとえば法華経如来寿量品によれば、
五百千万億那由陀阿僧祇の三千大世界を、すり潰して粉にして、その粉を全て持って東に向かい、五百千万億那由陀阿僧祇の国を過ぎるごとに、粉を一粒落としてさらに東に向かうことを続け、ついに持っていた粉が全部尽きるまでの時間
だということです。最初の「五百千万億那由陀阿僧祇」とは、大きな数の単位の羅列で、「那由陀」が1060、「阿僧祇」が1056ということですので、
5×102×107×108×1060×1056 = 5×10133
となります。ちょっとイメージはできませんが、5の後ろにゼロが133個並んでいるという数です。
これだけの数の「三千世界」をすり潰して粉にするわけですから、その粉の粒子の数はさらに気が遠くなるほど多くなり、この厖大な量の「世界の粉」を持って旅に出て、5×10133か国を過ぎるごとに一粒ずつ落としていく……という、尋常ではない行程に要する時間です。
要は、「果てしなく長い時間」ということなのでしょうが、この世の始まりから、それほどまでに「果てしなく長い時間」が過ぎた、まさに今この時に、私は「
この生の前世でも、そのまた前世でも、さらにまた前世でも……と無限の時間をさかのぼっても出遭うことができなかった、それほど貴重な仏の教えに、今やっと出遭えたという喜びと感謝が述べられています。
ところで分銅惇作氏は、『宮沢賢治の文学と法華経』(1993)の中で、この短歌の核心とも言うべき「いましこの」という表現が、法華経常不軽菩薩品の「偈」に出てくることを指摘しておられます。
億億万劫より 不可議に至りて
憶億万劫より 不可議に至りて
諸仏世尊 時に是の経を説きたまふ
(島地大等篇『漢和対照 妙法蓮華経』pp.502-503
憶億万劫から、不可思議(これも大きな数の単位で1064を指すとのこと)に至るまでの時間において、「時はまさに今こそ、この法華経を聞くことができる」というのですから、これは賢治の短歌の意味にもぴったりです。
ちなみに、岩波文庫版『法華経』の坂本幸男・岩本裕訳注では、この箇所の漢文は「時に
その意味でも、冒頭の賢治の短歌は、島地大等篇『漢和対照 妙法蓮華経』の常不軽菩薩品のテキストを下敷きにして、詠まれたものなのでしょう。
※
さてこの歌碑は、日蓮宗の総本山である久遠寺の三門をくぐって、右手の奥のほうの杉林のきわに建っています。 碑の文字は、紙片に書いてあった賢治自身の筆跡を写刻してあります。
歌碑は、宮沢賢治研究会(1959年に前身の「宮沢賢治友の会」から改称)が、創立10周年を記念して、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に建立したものです。
当時の宮沢賢治研究会理事長の佐藤寛氏が中心となって、協力者437名に加え匿名の多数の浄財によって建てられました。
1961年10月23日に行われた碑の除幕式には、北海道や九州からも計150名が参列し、賢治の次妹岩田シゲさんが、除幕を執り行ったということです。