トシとアイスクリーム

 去る9月23日に岩手県普代村で行われた、「『敗れし少年の歌へる』詩碑建立十周年記念式典」と、「『発動機船一』詩碑建立除幕式典」という催しに参加するために、花巻の阿部さんの車に乗せていただいて、23日から24日にかけて花巻から普代まで片道4時間を往復しました。
 途中で通過した北三陸の野田村には、同村特産の「野田塩」と牛乳を使用した、「のだ塩アイス」という名物があります。これは、先日「アイスクリームの製法」という記事においてふと想像してしまったような、まさに「塩味のアイスクリーム」なのです。

のだ塩アイス

 そんなことから連想して、トシとアイスクリームのことについて車の中で阿部さんとしばらく話をしていたのですが、その際に阿部さんが、やはりアイスクリームに関して貴重なエピソードを教えて下さいました。

 賢治の時代に、花巻に「精養軒」という西洋料理店があって、賢治もしばしば通っていたことは、よく知られています。その精養軒の創始者の長男さんが、阿部さんに語ってくれたというお話です。
 長男さんによれば、トシが花巻で療養していた時期に、宮澤家から精養軒に対して、「トシに食べさせるため」ということで何度かアイスクリームの注文があったのだそうです。当時まだ子供だった精養軒の長男さんは、その注文に応じて作られたアイスクリームが店の器の底に少し残っているのを、思わず指ですくってなめた記憶があり、その美味しさはずっと忘れられなかったというのです。

 あるいは、佐藤隆房著『宮沢賢治 ―素顔のわが友―』(冨山房)には、次のような箇所があります。

 病臥一年、大正十一年の夏となり、町家の暑気は病人には殊更たえがたい様子なので、七月のある日、とし子さんを町の南郊桜の宮沢家の寮(後に賢治さんが羅須地人協会をおいたところ)に移しました。
 その頃、ようやく町に出来た精養軒という洋食屋からアイスクリームを買って、自転車に乗らない賢治さんが、炎天の下を溶けるのを気にしながら走った姿も目に残ります。(p.101)

 つまり、賢治がトシにアイスクリームを食べさせるというエピソードは、前回記した東京の永楽病院から始まり、花巻精養軒のアイスクリームを経て、臨終の床の「みぞれ」に至り、そして最後には「天上のアイスクリーム」への祈りと昇華されるというわけです。

 当時アイスクリームというのは、高級レストランの息子でも普段は口にできない珍しい食べ物だったのでしょうが、家族がここまでしてトシに食べさせてやっているところからすると、彼女の好物だったのではないでしょうか。トシは、東京で女子大学生としての生活を経験していましたから、永楽病院に入院するまでに、すでにアイスクリームとの出会いがあったのかもしれません。