今日は、鳥取県の三朝温泉に来ています。
さすがにここには賢治の詩碑があるわけではないのですが、賢治が盛岡高等農林学校時代に、同人誌「アザリア」
を一緒に出していた親友の河本義行(緑石)氏の次女にあたる方が、今もお女将をやっている旅館があると聞いたので、
そこに泊まりに来ているのです。
河本緑石は、盛岡高等農林学校を卒業後、故郷の鳥取県倉吉市に帰ってやはり農学校の教師をしていましたが、
1933年7月に海水浴の監視中に、溺れた同僚を助けようとして36歳の若さで亡くなります。花巻で賢治が亡くなる2ヶ月前のことでした。
その最期の様子が、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラの水死を連想させるため、緑石がカンパネルラのモデルであるという説もあるようです。
しかし、この水死の場面が登場する「第四次稿」を賢治が書いたのは、緑石の死よりも先の1931~1932年頃と推定されており、
また実際のところ賢治は亡くなるまで、この親友の死の知らせを受けていなかったのではないかと言われています。
旅館の向かいには小さな喫茶店があり、その中にはしかし上のエピソードにちなんで、「カムパネルラの館」
と名づけられた一部屋がありました。ここには、賢治と緑石の交友を偲ぶさまざまな資料が展示されています。この十数年間、
毎年かならず花巻の賢治祭に参加しているというお女将さんに、そこでお父様や賢治にまつわるお話を、たくさん聞かせていただきました。
・・・現実の賢治は、緑石の死を知らなかったのかもしれない。・・・しかし、1918年に緑石に、「私もあと15年」
と語っていた預言者のような賢治のことだから、きっとどこかから何かを感じとって、あらかじめあの水死のシーンを書いておいたのではないか・
・・。そう話すお女将さんの言葉は、不思議に心に残りました。
いまや「第二の故郷」となった花巻のこと、そして賢治のことを、お女将さんは熱く語ってくださいましたが、
実は彼女はたった4歳の時に突然亡くしたお父様の面影のかけらを、今も遠く岩手に捜し求めておられるのかもしれない・・・、
そんなことも感じながらお話を聴いていました。
館内では、緑石の詩集『夢の破片』の復刻版が売られていたので、これを購入させていただきました。これは、緑石が賢治から
『春と修羅』を贈られたのに刺激されて、その翌年に自費出版したというものです。
(下の写真は「カンパネルラの館」。正面右には「アザリア」の4人で写した有名な記念写真が、
左の壁には一時は画家を志したという河本緑石の描いた油絵が飾られている。手前の机の上には、
緑石の草稿のコピーや出版物などの資料が並べられている。)
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