メディアに現れる宮沢賢治

 「asahi.com Perfect」というサイトから、1985年以降の朝日新聞の紙面において、「宮沢賢治」 という語が含まれている記事が年間にいくつあったかを検索してみました。結果は下のグラフのとおりです。

 生誕百年の1996年には各地で様々なイベントが行われたことから、記事数は一挙に増加しますが、この年を契機に、 彼の名前が紙面に登場する機会が明らかに増えたことがわかります。件数で見るかぎり、賢治への世間の注目度は、 それ以前の2倍になったとも言えるでしょう。しかも、これは一過性のブームに終わらず、今に至るまで件数は堅実に維持されており、 その人気が深く根づいていることをうかがわせます。

 あともう一つ、こうやってグラフにしてみるとちょっと気になるのは、1988年という年です。生誕百年よりも早く、 すでにこの年を境に、賢治の紙面への露出度は一段と高まっていたように見えます。
  この年にいったい何があったのか、ちょっと調べてみましたが、なかなか「これぞ」という出来事には行きあたりません。しいて言えば、 伊藤俊也監督の映画「風の又三郎 ― ガラスのマント」の撮影が始まり、「『風の又三郎』の子役に3000人応募」とか、 「雨ニモマケズ進む撮影」とか、「『風の又三郎』が文部省特選映画に」など、何度か話題になっています。とはいえ、 この映画がきっかけで世間の賢治への関心が高まったというほどの影響があったとは思えませんし、映画なら1985年の ますむら・ ひろしアニメ版「銀河鉄道の夜」の方が、今から思えばずっと歴史的な意味は大きかったでしょう。

 おそらくこの頃から、一つの要因には還元できないいろんな潜在的な力が1996年を準備し、現在にもつづいているのでしょう。

    朝日新聞における宮澤賢治関連記事件数