このあと折り返して花巻市街に入り、なはんプラザで開催されている「宮沢賢治国際研究大会」をのぞいてみました。中途半端な時間だったのですが、「シンポジウム『銀河鉄道の夜』―異文化へ―」というのをやっていました。司会のロジャー・パルヴァースさんは、私にとってはちくま文庫の『英語で読む宮沢賢治詩集』の美しい言葉で親しんでいた方ですが、実物は関西弁で冗談ばかりとばしている、とても面白いおじさんでした。
「宮沢賢治学会」は、ステージの上の演題発表やシンポジウムの様子はふつうの学会と変わらないと思うのですが、「参加者の服装の幅の広さ」と、「聴衆の皆の熱心さ」が、一般の学会とは違った印象です。
夕方に会場を抜け出して、JR北上駅から今晩宿泊する瀬美温泉というところへバスで向かっていると、窓からは虹が見えました。
午前中は、瀬美温泉から山道を歩いて入畑ダム(右写真)へ行き、詩碑を見ました。「〔二川こゝにて会したり〕」という文語詩ですが、この詩にかぎらず(「〔川しろじろとまじはりて〕」や「川ふたつ/ここに集ひて」など)、賢治は二つの川が合流するという現象に、独特の愛着をいだいていたのではないかと思います。誰か一人の人間と「どこまでもいつしよに行かうとする」ことを抑圧した賢治は、川がまじわってずっと一緒に流れていくことに、何かの思い入れをしていたのでしょうか。
午後からは、「宮沢賢治国際フェスティバル2000」の番外編としての「エクスカーション」(種山ヶ原バスツアー)に参加しました。じつは私は今回、このエクスカーションに行きたくて、花巻まで来たようなものだったのです。
バスに揺られて着いた高原は、もうあたりにすすきがたなびき、すっかり秋の空でした。種山ヶ原の風景は期待にたがわずすばらしく、なかでも種山(871m)の頂上ちかくで、賢治がその上に立って「イーハトヴ県」を展望したという大きな岩の突起(「三六八 種山ヶ原(下書稿(一)第一形態)」)を目にしたときには、ほんとうに感激しました(左写真)。
またこのツアーのおかげで、「賢治の事務所」の加倉井さん、「森羅情報サービス」の渡辺さん、「宇宙文化研究所」の大山さんなど、これまでネットを通じて知り合った方々とも、お会いすることができて、はるばる来た甲斐がありました。
この日の写真等は、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のホームページの、「第2回宮沢賢治国際研究大会速報レポート」で紹介されています。
まず盛岡へ出ると、駅前でレンタサイクルを借りて、市内で5つの碑(「生徒諸君に寄せる」詩碑 、「僧の妻面膨れたる」詩碑、「川と銀行…」詩碑 、「ちゃんがちゃが馬こ」歌碑 、「ちゃんがちゃがうまこ連作」歌碑)を急いでまわりました。最後の歌碑は、賢治が昔下宿をしていたという場所にあって、傍らには「賢治清水」と称して、当時使われていたという井戸も残されています(右写真)。
昼食は「食道園」で冷麺を食べて、レンタサイクルを返却すると、盛岡駅から東北本線に乗りました。南に3つめの矢巾駅で降りると、西郊外の煙山地区を目ざします。
賢治は盛岡中学時代に、寄宿舎で同室の藤原健次郎が矢巾町出身だった縁もあり、藤原と一緒に何度もこの辺にやってきたようです。今のこのあたりは、矢巾温泉、パストラルバーデン、水辺の里など、水やお湯にちなんだ各種の施設が整備され、その一環として賢治の「南昌山」歌碑も建てられています。岩崎川のせせらぎに沿って整備された遊歩道をさかのぼっていくと、草穂の向こうに釣鐘型の南昌山が現われました。
そのあと花巻へ戻って、こちらでもレンタサイクルを借り、花巻南高校の「風林」詩碑などを見ました。
経度差のためでしょうが、このへんは関西よりもたしかに日暮れが早い気がします。ほんの少し暗くなるのを感じながら、午後6時前に花巻空港に向かいました。この夏は結局、二度も花巻へ来てしまいましたが、それもこれで終わりです。
10時頃に京都に着くと、「万両」に寄ってから、家に帰りました。