一〇七二

     黒くみだらな雨雲に云ふ

                  一九二七、六、一、

   

   神話乃至は擬人的なる陳述は

   小官のはなはだ愧づるところではあるが

   仮にしばらく練金士兼農化学者(アグロノミスト)

   博士教授(ドクタープロフェッサー)リンゴーロ氏に従って

   黒く淫らな雨雲に云ふ

   小官はこの峠の上のうすびかりする顥気から

   またここを通る野ばらのかほりあるつめたい風から

   また山谷の凄まじくも青い刻鏤から

   小官が任地の町の四年の中に受理したる

   数個の暗い焦痕を

   跡方もなく洗ひ去らうと企てて

   今日の出張日程のわづかばかりの絶間をば

   分水嶺のこの頂点に来たのであるが

   そもそも黒い雨雲(ニムブス)

      教授(プロフェッサー)兼バリトン歌手の

      リンゴーロ氏に依ればだぞ

   おまへは却って小官に

   異常な不安を持ち来し

   謂はゞ殆んど小官をして

   そら踏む感をなさしめる

   けだし過ぎ来し五月二旬のあひだ

   淫らなおまへら雨雲(ニムブス)族は

   西の河谷を覆って去らず

   稲苗すべて、徒長と赤い病斑を得た

   然も今日、予報はすでに、晴れを示すにかゝはらず

   この山頂の眼路遥かなる展望は

   譎詐常ないおまへを疑はしめざるを得ぬ

   第一暗い気層の海鼠

   八葉山の鞍部に於て

   おまへが淫卑なひかりとかたちとで

   その変幻と出没を次第に強く示すこと

   第二におまへが巨大な陰影の網を落して

   一様にひわいろなるべき視界を覆ひだし

   北斎描く、北上山地開析の図を汚すこと

   第三にかの爽かな上層雲に逆って

   ことさら強くおまへが北に馳けること

   これらを綜合して見るに

   あやしくやわらかな雨雲よ

     ……いゝかな翻訳者兼バリトン歌手の

       リンゴーロ氏に従へばだぞ……

   たとへ数個のなまめく日影を許すとも

   非礼の香気を風に伝へて送るとも

   おまへは最后にそのまっ黒な尾を翻へし

   みだらな触手に全天を獲り

   セロの音するかの流体を

   山地と河谷に注ぐべく

   意図するものと推察し

   じつに小官は

   動機に於ていさゝか不純なりとは云へ

   満腔の不満の一瞥を最后におまへに与へて

   すみやかにこの山頂を去らうとする

   

 


   ←前の草稿形態へ

次の草稿形態へ→