尾根みちにのぼってから

   まだ十分にもならないのに

   づぼんはまるで露でいっぱい

   流れを渉ったやうになった

   青い朝日がくらくらのぼって

   あざみも蕗もみんなひかり

   東の小友の河谷の方は

   手にとるやうに見えるけれども

   右手の谷は足もとから

   灰いろの霧が平によどんで

   その木の影も巨きく落ち

   わたくしの影法師も

   ばけものみたいにうごいてゐる

   その灰いろの霧のなかで

   鳥がたくさんないてゐる

   またぶるぶると鳴らしてゐる

   ぜんたいゆふべの小友のおやぢ

   あれが名高い山六だらう

   あいつが案内するといったのを

   星のあるうちにすっぽかして

   ひとりでさっさと来たことは

   あとの面倒がなくて

   まことにうまくやったとおもふ

   すでにこゝらの入口で

   あざみの花のまっ赤なのは

   いち応ノートにあたひする

     ……ああそのノート

       すでに

       けい線青く流れてゐる

       図板のけいも青くながれた……

   年々草がへるといふのは

   一つは脱ろ一つは馬がふむのだらう

     ……鳥がぶるぶるまた鳴らす

       行ったり来たりしてゐるのは

       よほど巨きな鳥なのだらう……

   軍馬補充部の六原支部が

   来年度から廃止になれば

   上閉伊産馬組合が

   それを継承するのだけれども

   組合長の高清は

   きれいに分けた白髪を、片手でそっとなでながら

   ひとつ無償でおねがひしたいといふのだらう

   おれの調べもやはり無償は明かだ

   けれども天気のいゝ日曜日に

   こっちも教材をとりながら

   草のきれいな高原を

   あるくといふのはあんまり損なことでない

   それをあの目の鋭いおやじは

   すっかり見抜いて知ってゐる

   何十年の借金で根こそげすっかり洗ひつくし

   教会のホールのやうになった

   がらんとした巨きな室のなかで

   きれいに分けた白髪へ

   ピアノを引くときのやうに

   指をたてゝこわごわ入れ

   ふけを掻いているのはかなはない

     ……谷にゐるのは山鳥でない

       よほど大きな鳥だけれども

       行ったりきたりしてゐるとこは

       どう考へても山鳥でない……

   どこからか葡萄のかほりがながれてくる

   東は青い高原の縞

   かゞやかに陽は醸造されるけれども

   この谷の霧の中でだって

   何軒かの小さな部落がある

   その人たちが去年の山葡萄で

   こっそりつくった酒かもしれない

     ……けれどもどうして

       この谷の底の人たちには

       いくら山葡萄をとっても

       それをこさえるひまなどはない……

   あたらしくながれてきたこの葡萄のかほりは

   葡萄でなくて栗の花だ、

   送って来たのは西の風だ

   霧の向ふのあの尾根は

   谷の霧から岬のやうに泛んでゐる

   向ふの尾根の見えない斜面に

   巨きな栗がたくさんあって

   こゝでは野原よりは却って遅れて

   月光いろの栗の花が

   いまいっぱいに咲いてゐて

   それがかういふ西の風にとかされ

   いくすじもいくすじもここらを通ってゐるのだらう

   それが葡萄に似てゐるのは

   茶いろに熟してこぼれはじめた花のだらう

 

 


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