移化する雲

                 宮澤賢治

   

     ……はつれて軋る手袋と

      凍つて盲(し)ひた月の鉛……

   県道(みち)のよごれた凍雪(しみゆき)

   西につゞいて氷河に見え

   畳んでくらい丘丘を

   春のキメラがしづかに翔ける

     ……眼に象つて

      かなしいその眼に象つて……

   北で一つの松山が

   重く澱んだ夜なかの雲に

   肩から上をどんより消され

   黒い地平の遠くでは

   何か玻璃器を軋らすやうに

   鳥があちこち啼いてゐる

     ……眼に象つて

      泪をたたえた眼に象つて……

   丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる。

   ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて

   笹がすこうしさやぐきり

   たとへばねむたい空気の沼だ

   かういふひそかな空気の沼を

   板やわづかの漆喰(しつくひ)から

   正方体にこしらえあげて

   ふたりだまつて座つたり

   うすい緑茶をのんだりする

   どうして さういふやさしいことを

   卑しむこともなかつたのだ

     ……眼に象つて

      かなしいあの眼に象つて……

   あらゆる好意や戒めを

   それが安易であるばかりに

   ことさらあざけり払つたあと

   ここに蒼々うまれるものは

   不信な群への憤りと

   病ひに移化する疲ればかり

     ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる

     霧が氷雨を含むらしい

     黒く珂質(かしつ)の雲の下

     三郎沼の岸からかけて

     夜更けの巨きな林檎の樹に

     しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……

     (わたくしの創(つく)つた蝗を見てください)

     (なるほど それは

      ロッキー蝗といふ風ですね

      白墨(チヨーク)でへりを隈どつた

      黒の模様がおもしろい

      それは一疋だけ見本ですね)

   おゝ月の座の雲の銀

   巨きな喪服のやうにも見える

 

 


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