賢治 日めくり ~3月26日~

- 1904年3月26日(土)(賢治7歳)、花巻川口尋常高等小学校第一学年の終業式が行われた。賢治は学術行状優等につき、「国語読本巻三 一冊」を与えられた。成績は「全甲」であった。
- 1906年3月26日(月)(賢治9歳)、花巻川口尋常高等小学校第三学年の終業式が行われた。賢治は学術優等につき、「国語読本巻三 一冊」を、また本学年精勤につき、「書方手本 一冊」を与えられた。成績は「全甲」であった。
- 1907年3月26日(火)(賢治10歳)、花巻川口尋常高等小学校第四学年の終業式が行われた。賢治は学術優等につき、「読本 二冊」を与えられた。成績は「全甲」であった。
この時の健康診断で、身長122cm、体重23.5kg、胸囲57cm、脊柱正、体格中、眼疾ナシ、耳疾禹(よく通ず)、疾病ナシ。
- 1908年3月26日(木)(賢治11歳)、花巻川口尋常高等小学校第五学年の終業式が行われた。賢治は成績優等につき、「高等小学校修身書 二冊、高等小学読本 二冊、高等小学美術書 一冊」を与えられた。また本学年精勤につき、「高等小学書方手本 二冊」を与えられた。成績は「全甲」であった。
この時の健康診断で、身長128cm、体重24.8kg、胸囲58cm、脊柱正、体格中。
- 1909年3月26日(金)(賢治12歳)、花巻川口尋常高等小学校の卒業式が行われた。賢治は成績優等につき、「高等小学読本 二冊、高等小学校修身書 一冊、高等小学算術書 一冊」を与えられた。また本学年精勤につき、「高等小学書キ方手本 二冊」を与えられた。成績は「全甲」であった。
この時の健康診断で、身長133.9cm、体重29kg、胸囲60cm、脊柱正、体格強。
小学校全期を通じて賢治と優秀な成績を競ったのは、同町内の佐藤金治、小田島秀治の三人で、あわせて「三治」と呼ばれた。下の記念写真で、上から二列目左から十人目が賢治。

- 1916年3月26日(日)(賢治19歳)、晴れ。19日から盛岡高等農林学校の修学旅行に出ている賢治ら一行は、八日目のこの日、朝8時に京都の宿を出て、京津電車で大津へ行き、三井寺に参詣した。次に湖南汽船で琵琶湖を石山に渡り、石山寺に参詣した。再び石山から今度は和船に乗って、唐橋の下青嵐のあたりから上陸し、滋賀県立農事試験場に向かった。
農事試験場では、稲の品種改良や病虫害について説明を受け、電車で大津に戻ると、一行はここで二班に分かれた。一つの班は、三保ヶ崎から船で琵琶湖疏水を下り、インクラインを通って京都の蹴上に至り、もう一つの班は、汽車で京都に向かった。
一同が京都の宿に着いたのは午後6時だった。夜は茶話会があり、学生や教師がそれぞれ旅行中の感想を述べた。
- 1920年3月26日(金)(賢治23歳)、盛岡高等農林学校で二年後輩の藤井禎輔が卒業して郷里の山口に帰る途中、稗貫郡役所勤務の大谷良之を訪ね、二人で賢治を呼び出して、一緒に会食した。その時出た親子丼の卵や鶏肉を、賢治が取り除きながら食べるのを、藤井は不思議に思って見ていたという。
- 1927年3月26日(土)(賢治23歳)、「一〇一六 〔黒つちからたつ〕」(「詩ノート」)を、スケッチした。
- 1931年3月26日(木)(賢治34歳)、この日賢治は陸中松川の東北砕石工場に行った。工場では土台のコンクリート打ちをしていた。工場に十円支払い、帰途水沢の中林商店に寄った。
- 1933年3月26日(日)(賢治36歳)、御田屋町長久寺の佐藤元勝からの見舞い状に対して、礼状を書いた(書簡464)。
「御老師並に皆々様いよいよご健勝の趣、市の川様より伺ひ上げ、何とも力強く存じ居ります。私意久地なく疾んでばかり居りまして、いろいろご心配を掛け上げお申し訳もありません。
悪念外に発せざるもの、次第に集積敗爛してこの患をなしたるものかと、自ら呆れて笑ふこともあります。…」
長久寺は臨済宗妙心寺派の寺で、元勝の父祖琳が住職だったが、この時元勝は本山から帰り院代をつとめて父を助けていた。賢治は祖琳の禅道会で提唱を聞いており、『槐安国語提唱録』を寄進するなど付き合いがあった。