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三朝温泉 (2002年12月22日~12月23日)


2002/12/22
 京都駅を午前10時53分発の特急「スーパーはくと5号」に乗り、鳥取県の三朝(みささ)温泉を目ざしました。
 この特急は、京都から山陰線を走るのではなく、東海道線で大阪に出て、山陽線で兵庫県の上郡まで行き、ここから第三セクターの智頭急行線に入ります。その途中の岡山県大原町は宮本武蔵の生誕地ということで、その名もずばり「宮本武蔵駅」があり、来年の大河ドラマを当てこんだキャンペーンが行われていました。
 特急は智頭駅でまたJRの因美線に入り、鳥取で日本海側に出て、さらに30分ほど走ると倉吉駅に着きました。倉吉からタクシーで少し山の方に入ると、三朝温泉です。

 さすがにこの山陰の温泉地には賢治の詩碑があるわけではないのですが、ここに、賢治の盛岡高等農林学校時代の親友河本義行(緑石)の次女にあたる方が、今もお女将さんをやっておられる木屋旅館という旅館があると聞き、そこに泊まりに来たのです。

 タクシーを降りるとまだ午後3時すぎでしたが、山陰の町にはもう夕方の気配がただよっていました。木屋旅館(左写真)は温泉街のまん中あたりの古い街道沿いにあって、裏は三徳川に面しています。部屋に案内してもらって窓を開けると、すぐ下は川の流れになっていました(右写真)。


  河本義行は1897年(明治30年)、鳥取県倉吉市の旧家にに生まれました。賢治より1歳年下です。倉吉中学在学中から荻原井泉水の自由律俳句に親しみ、4年生の時には井泉水の主宰する句誌『層雲』の誌友となっています。1916年(大正5年)に中学校を卒業すると、はるばる北の盛岡高等農林学校に進学しました。

 その年の11月に刊行された同校の「校友会々報」第32号には、2年生の賢治が、「灰色の岩」「うまのひとみ等」「旅の手帳より」と題して短歌29首を初めて投稿していますが、1年生の河本もさっそく「緑石」の俳号で、「故郷にありし日」「来盛途上」「着盛以後」と題する自由律俳句32句を載せ、早熟な才能を見せています。くしくも二人の「校内文壇デビュー」は同時だったのです。
 それにしても、賢治をはじめ校友会に集う多くの文学青年が、故郷の大先輩石川啄木の影響下でその感傷を叙情的な短歌に詠みきそっていたところへ、当時の前衛たる自由律を引っさげて、遠い西国から新入生が現われたわけですから、これはみんなに強い印象を与えたことでしょう。
「アザリア」四人衆 この年に河本と一緒に入ってきた風雲児・保阪嘉内の存在も異彩を放ち、きっと上級生たちも刺激を受けて、文学への機運が高まったのだと思います。賢治と、その同級生で校内文壇では先輩格の小菅健吉、それに上記1年生2人をを合わせた4人が中心になって、翌年の1917年7月に、文芸同人誌「アザリア」が創刊されました。小菅はその巻頭に寄せた創刊の辞の中で、「敢て吾曹一派を詩人と名つけん」と高らかに宣言し、「年来各自の心に、はりつめたる琴線相触れて、ここに第一歩を踏み出しぬ」と記しました。(右写真で前列左が小菅、右が河本、後列左が保阪、右が賢治)
 この時から翌年6月までの1年足らずの間に、「アザリア」は6号までが発行されて、若者たちのあふれるような創作の媒体となります。手刷りの謄写版印刷で、同人の数だけの発行というささやかなものでしたが、そこにはまさに彼らの青春が詰まっていました。

 しかし突然1918年3月、よりによってこの誌上における筆禍で保阪嘉内が退学処分を受けた時には、同人たちが受けた衝撃もはかりしれないものでした。失意の嘉内を支えようとする皆の友情の結晶とも言える第六号をこの年6月に出し終えると、もとの同人たちは名残を惜しみつつもそれぞれ別の道を歩いていきます。
  4人のうちで1人学校に残った河本は、7月に賢治と会った時のことを、次のように嘉内に書き送っています。「今日も今日とて、宮沢氏は肋膜にて実家に帰つた。私のいのちもあと十五年はあるまいと。淋しい 限りなく淋しいひびきを持つた言葉を残して汽車に乗つた。」
 これは当時の二人の寂寥感を表わすやりとりだったのでしょうが、何という運命のいたずらか、賢治は、そして河本緑石さえも、ちょうどこの15年後に死ぬことになります。

 河本は翌年春に盛岡高等農林学校を卒業すると、自ら志願して兵役につき、除隊後1921年に長野県の伊北農商学校の教諭になりました。その年の12月に、やはり花巻農学校に就職したばかりの賢治から葉書を受けとったようですが、それについては次のように嘉内に書き送っています。「宮沢さんから端書が来て私はすくはれた様でした。たすけ舟の様な端書でした。」 今度は賢治は、見知らぬ土地で孤独だった河本を力づけることができたようです。

 1923年に、河本は故郷の鳥取県倉吉市に帰って倉吉農学校の嘱託になり、翌年には正式に教諭となりました。農芸農産加工、農業土木などの専門科目のほかに、絵やスポーツの才能を生かして美術や武道・体操も担当したということです。文学と絵画も熱心に続け、仲間と故郷に文芸結社「砂丘社」を興し、多くの作品を発表しました。
 1924年に賢治から『春と修羅』『注文の多い料理店』を寄贈された時には、よほどの刺激を受けたのか、翌年にそれまでの自分の作品をまとめ、詩集『夢の破片』として自費出版しました(左写真)。そこに収められた103の詩篇は、「朔太郎的官感的憂鬱症」と「白樺的人道主義的生命把握」の両方を併せ持ったものと評されています。

 その後も河本はずっと倉吉農学校で教鞭をとり、その穏やかな人柄から、生徒からは「仏さん」のあだ名で慕われました。やはり自ら農学校の校歌を作詞し、式典の時にはオルガンの演奏も担当したということです。一方で、地域の文芸誌『砂丘』の編集や、いくつかの句誌の選者として活躍するとともに、油絵も描きつづけて展覧会に出品しました。
 地方の名家に生まれ、農学を修めて教師になり、文学や多方面の才能を開花させたところなどは、賢治とよく似た人生にも見えます。しかし他方、河本は最後まで辞めずに教師をつづけ、鍛えた肉体は病気も寄せつけず、幸せな家庭と子供たちに恵まれました。

 さて、花巻と同じく内陸の倉吉には、海というものがありません。そこで倉吉農学校では毎年夏になると、北西に15kmほどのところにある八橋海岸というところで、生徒の水泳訓練を行っていました。泳ぎの苦手な賢治が、「イギリス海岸」での生徒の水泳に付き添いながら、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んで行って一諸に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一諸について行ってやろうと思っていた」というのと対照的に、スポーツマンだった河本緑石は水泳も得意で、教練の担当教官として生徒の安全を監視するのが役目でした。
 1933年7月18日、この年も生徒に付き添って八橋海岸に来ていた河本は、沖合で同僚が溺れかけているのを発見します。すぐに海に飛び込んで救助に向かい、同僚の方は幸いに助かりました。しかし河本はその無事を見届けると、収容された船の中で、息を引きとってしまいました。心臓発作を起こしたと言われていますが、実にまだ36歳の若さでした。

 その最期の様子が、「銀河鉄道の夜」で溺れる友達を助けようとして犠牲になったカンパネルラの死を連想させるため、河本緑石がカンパネルラのモデルであるという説も根強くあります。しかし、このカンパネルラの水死の場面が登場する「最終形」を賢治が書いたのは、河本の死よりも早い1931~1932年頃と推定されており、また実際のところ賢治は河本の2カ月後に自分が死ぬまで、この親友の死の知らせを受けていなかったのではないかとも言われています。
 真相は、賢治に聞かなければわかりません。ただ、賢治と幾重にも不思議な縁で結ばれた親友がこの遠い西国にいて、賢治と同じ頃に亡くなったのです。


 話を三朝温泉に戻します。私たちが旅館の部屋に荷物を置いて表に出てみると、向かいには小さな喫茶店がありました。そしてその中には、上のエピソードにちなんで「カムパネルラの館」と名づけられた一部屋があり、賢治と緑石の交友を偲ぶさまざまな資料が展示されていました。
 私たちはその「カンパネルラの館」で、河本緑石の次女である旅館のお女将さんにお会いして、お父様や賢治にまつわる話をいろいろと聞かせていただきました。

 ・・・現実の賢治は、河本緑石の死を知らなかったのかもしれない。・・・しかし、1918年に河本に、「私のいのちもあと十五年」と語っていた預言者のような賢治のことだから、きっとどこかから何かを感じとって、あらかじめあのカンパネルラの水死のシーンを書いておいたのではないか・・・。
 まるで昔を回想するようにそう話すお女将さんの言葉が、とりわけ心に残りました。
 また、お女将さんはこの十数年間というもの、毎年かならず花巻の賢治祭に参加しつづけているということです。今や「第二のふるさと」となった花巻のことも、彼女は熱く語ってくださいました。
 ・・・ひょっとしたらお女将さんは、たった4歳で突然亡くしたお父様の面影のかけらを、今もはるか岩手に捜し求めておられるのかもしれない・・・、また、北方へ出かけたまま帰ってこない父親をジョバンニが待ちつづけていたように、幼い頃からずっと「父の不在」を背負ってこられたのだろうか…、そんなことも考えながら、賢治祭のお話を聴いていました。

 このあと、緑石の詩集『夢の破片』の復刻版を購入して、夕暮れの温泉街を散歩しました。三徳川にかかる恋谷橋から宿の町並みを眺めると、うっすらと湯気にけむっていました。
 それから旅館に戻って「世界屈指のラジウム温泉」に入り、今年の疲れを落としました。お湯から上がってビールを飲みながら待っていた晩ご飯は、この季節の山陰ですから、もちろん松葉ガニのコースです。お腹いっぱいになってからもう一度温泉につかり、ホームページの更新をして早めに寝ました。

(左写真は「カムパネルラの館」の内部。正面右には「アザリア」の4人の記念写真が、左の壁には一時は画家を志したという河本緑石の描いた油絵が飾られている。机の上には、緑石の草稿のコピーや出版物などの資料が並べられている。)

2002/12/23
 昨夜は一晩中、まるで枕の下を流れているかのように三徳川の水音が聞こえていました。夢の中で何か四苦八苦して作業をしているのですが、おそらく昨日の午後に見た賢治と緑石の厖大な資料を、ホームページにまとめるか何かしているようでした。
 作業は結局あやふやなままで、疲れて朝6時半に目が覚めました。まだあたりはまっ暗で、食事までは時間があったので、また温泉につかりに行きました。

緑石「自画像」 部屋に戻ると、昨日買った河本緑石の詩集『夢の破片』のページをめくってみました。まず冒頭には「自序に代へて」として、「自画像」(=右写真)「懺悔の図」「悩みの心図」「病気の図」「蛇の図」の5枚の油絵が掲げられていて、印象的です。ルオーの絵のように分厚く塗られていますが、いずれも深く自らの内面をえぐるような重苦しさがあり、賢治が自らの「心象」を、「腐植の湿地」や「諂曲模様」と描いたような感性と通ずるものも感じます。
 本文の詩作品は、朔太郎的な陰鬱な感傷を描いたものと、高原などの自然をうたったものなどが特徴的です。言葉はどれも、素直な響きを持っています。
 その中の一篇「マヌドリーヌ」には、「とある北の街の/軒の氷柱に燈す店さきで/むさぼるやうに買ふてきた/マヌドリーヌ、…」という一節がありました。マンドリンを買い求めたというこの「北の街」は、ひょっとして青春時代をすごした盛岡なのでしょうか。
 そうこうするうちに、やっと朝食の時間になりました。おいしい味噌汁で食事をすませると、お女将さんと宿に別れを告げ、ワゴン車で倉吉駅まで送っていただきました。


  さて、倉吉からは山陰線下りの普通列車に乗りこみました。列車は海辺に出て小半時ほど西に走り、三つめの駅「浦安」で、私たちは降りました。改札を通って駅舎から出ると、駅の前から北に延びる道路のまっすぐ先に、暗い海が見えます(右写真)。
 まずは道の向こうのその海を目ざして、冬の日本海に出ました。そしてそこからは、白く打ちよせる波を左に見ながら、防波堤に沿って歩きます。時おり冷たい小雨が斜めに吹きつけ、折りたたみの傘がぱたぱたと音を立てます。
 その海辺の道を1kmほど東へ行くと、逢束というところに出ました。

 69年前におそらくこのあたりの海で、河本緑石は溺れる同僚を助けようとして亡くなったのです。
 現在この場所には、「悼 緑石」と題された下写真のような種田山頭火の句碑が建てられています。山頭火と緑石は、生前に直接会ったことはなかったようですが、当時、自由律俳句運動の中心だった荻原井泉水の門下として、おたがいによく知っていたそうです。
 緑石の訃報に接した山頭火の日記には、次のように記されていました。「緑石はまだ見ぬ友のなかでは最も親しい最も好きな友であった。一度来訪してもらう約束もあったし、一度往訪する心組みでもあった。それがすべて空になってしまった。どんなに惜しんでも惜しみきれない緑石である。あゝ。」 この文章も一緒に、句碑に刻まれていました。

 このあたりの八橋海岸は現在もとても人気の海水浴場で、夏になるとその遠浅の砂浜は、いっぱいの家族連れでにぎわうそうです。明治24年8月には、小泉八雲も海水浴を楽しんだという、ここは由緒のある海岸です。



悼 緑石

波のうねりを影がおよぐよ

夜蝉がぢいと暗い空     山頭火




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