三七四

     河原坊(山脚の黎明)

                  一九二五、八、一一、

   

   わたくしは水音から洗はれながら

   この伏流の巨きな大理石の転石に寝やう

   それはつめたい卓子だ

   じつにつめたく斜面になって稜もある

   ほう、月が象嵌されてゐる

   せいせい水を吸ひあげる

   楢やいたやの梢の上に

   匂やかな黄金の円蓋を被り

   しづかに白い下弦の月がかかってゐる

   空がまた何とふしぎな色だらう

   それは薄明の銀の素質と

   夜の経紙の鼠いろとの複合だ

   さうさう

   わたくしはこんな斜面になってゐない

   も少し楽なねどこをさがし出さう

   あるけば山の石原の昧爽

   こゝに平らな石がある

   平らだけれどもここからは

   月のきれいな円光が

   楢の梢にかくされる

   わたくしはまた空気の中を泳いで

   このもとの白いねどこへ漂着する

   月のまはりの黄の円光がうすれて行く

   雲がそいつを耗らすのだ

   いま鉛いろに錆びて

   月さへ遂に消えて行く

    ……真珠が曇り蛋白石が死ぬやうに……

   寒さとねむさ

   もう月はたゞの砕けた貝ぼたんだ

   さあ ねむらうねむらう

    ……めさめることもあらうし

      そのまゝ死ぬこともあらう……

   誰かまはりをあるいてゐるな

   誰かまはりをごくひっそりとあるいてゐるな

   みそさざい

   みそさざい

   ぱりぱり鳴らす

   石の冷たさ

   石ではなくて二月の風だ

    ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……

   誰か来たな

    ……半分冷えれば半分からだがみいらになる……

    ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……

    ……半分冷えれば半分からだがめくらになる……

    そこの黒い転石の上に

    うす赭いころもをつけて

    裸脚四つをそろへて立つひと

    なぜ上半身がわたくしの眼に見えないのか

    まるで半分雲をかぶった鶏頭山のやうだ

    ……あすこは黒い転石で

      みんなで石をつむところだ……

   そこらはだんだん崖になる

   あしおとがいま峯の方からおりてくる

   ゆふべ途中の林のなかで

   たびたび聞いたあの透明な足音だ

   ……わたくしはもう仕方ない

     誰が来やうに

     こゝでかう肱を折りまげて

     睡ってゐるより仕方ない

     だいいちどうにも起きられない……

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      (南無阿弥陀仏)

      (南無阿弥陀仏)

      (南無阿弥陀仏)

    何といふふしぎな念仏のしやうだ

    まるで突貫するやうだ

        :
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    もうわたくしを過ぎてゐる

    あゝ見える

    二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ

    黒の衣の袖を扛げ

    黄金で唐草模様をつけた

    神輿を一本の棒にぶらさげて

    川下の方へかるがるかついで行く

    誰かを送った帰りだな

    声が山谷にこだまして

   いまや私はやっと自由になって

   眼をひらく

   こゝは河原の坊だけれども

   曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは

   真言か天台かわからない

   とにかく昔は谷がも少しこっちへ寄って

   あゝいふ崖もあったのだらう

   鳥がしきりに啼いてゐる

   もう登らう

 

 


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