三七二

     渓にて

                  一九二五、八、一〇、

   

   谷を覆ったいたやの脚を

   煤けた雲がひどくのぼってきまするし

   うしろの方では

   滝がどんどん弧を増して

   この奥山の奥(一字不明)

   ごみや粘土で変に濁って居りまする

   ところがこゝは

   ちゃうど直径一米

   ひどく明るくて石油のやうで

   雫にぬれたしらねあふひやぜんまいや

   いろいろの葉が青びかりして

   風にぶるぶるふるえてゐるといふことは

   こゝだけ雲が切れてるためかと考へまして

   そらをすかして見ましても

   枝の間の雲脚は

   なかなかもってむじないろです

   こゝだけ枝がすいてるためかと考へまして

   もいちど上を見ましても

   楢の梢は三寸とすいて居りません

   そんなら人はぬれてがたがたふるえるときに

   何かかういふ発光をすることでもあるとしますれば

   いよいよあとがあぶないわけ

   やあもうどうして

   そらの電気がひとつぱちっとやりました

   まもなくそこらの蛇紋岩だの橄欖岩が

   ごろごろうなりだすでせう

   それではどうも早く走って下りないと

   谷もわたって行けなくなってしまひます

   それでは神さま

   ひとつはしるといたします

   けれどもこゝらのいたやの下は

   みな黒緑のいぬがやで

   それに谷中申し分ないいゝ石ばかり

   もっとこゝらでかんかんとして

   山気なり嵐気なり吸ってゐたいのでありますが

   いやあなたさまこんどは

   どういふわけでまたもやそんな

   うすむらさきにべにいろなのを

   まっかうわたくしに照らしつけて

   おおどしなさるのでありますか

 

 


   ←前の草稿形態へ

次の草稿形態へ→