空 明 と 傷 痍
宮澤賢治
顥気の海の青びかりする底に立ち
いかにもさういふ敬虔な風に
白い紙巻煙草(シガーレツト)を燃すことは
月のあかりやらんかんの陰画
つめたい空明への貢献である
……ところがおれの右掌(て)の傷は
鋼青いろの等寒線に
わくわくわくわく囲まれてゐる……
然ればきみはピアノを獲るの企画をやめて
かの中型のヴアイオルをこそ弾くべきである
燦々として析出される氷晶を
総身浴びるその謙虚な直立は
物のきほひにふさはしからぬ
……ところがおれのてのひらからは
血がまつ青に垂れてゐる……
月をかすめる鳥の影
電信ばしらのオルゴール
泥岩を噛む水瓦斯と
一列黒いみをつくし
……てのひらの血は
ぽけつとのなかで凍りながら
たぶんぼんやり燐光をだす……
しかも結局ピアノをあきらめかねるとすれば
畢竟きみもその厳粛な直立も
月賦で買つた緑青いろの外套に
しめつたルビーのひをともし
かすかな青いけむりをあげる
一つの焦慮の工場に過ぎぬ