賢治 日めくり ~9月22日~

- 1918年9月22日(日)(賢治22歳)、前日から稗貫郡東北部の土性調査に出ているが、この日は予定より早く早池峯山の調査を終え、岳に宿泊したと推定される。
- 1931年9月22日(火)(賢治35歳)、出張のため9月20日に東京に着くとともに熱発して旅館で寝込んでいるが、前日付けの賢治の手紙を受け取った東北砕石工場長鈴木東蔵は、病気のことは知らないままにこの日返事を書き、大阪まで不可能の場合にも名古屋までは足をのばしてほしいこと、西ヶ原農事試験場の場長を来月招待する予定なので訪問しておいてほしいこと、工場として不況打開策はこの壁材料にあり目下盛んに山から運び出していることなどを伝えた。
一方、友人の菊池武雄は、前日に賢治が「花巻には絶対帰りません、知らせないで下さい」と言っていた気持ちを推し測り、とにかく賢治は家に帰らずに東京で療養して暮らしたいのだろうと判断した。そして、自分の住む吉祥寺界隈だったら空気もよく療養にはもってこいだろうと夫婦で相談し、手頃な貸家がないか探し始めた。
- 1933年9月22日(金)(没後1日)、前日の賢治死去を受けて、藤原嘉藤治・関徳弥・森佐一・母木光・梅野健三の連名による「死亡告知」(和紙・黒色活版印刷)が配布された。
「宮沢賢治氏はこの二三日来遽かに病勢があらたまり、二十一日午後一時半遂に三十八歳で永眠されました。
私達は太陽をなくしたやうな絶望感のまつ暗い中に居ることを痛感します。
数年来の病床に居られながらも氏の尊い芸術や宗教に対する努力は瞬時も休むことなく、全く火の出るやうな精進の日をすごされて居られました。既に病床にて完成された作品も夥しいもので、新しく私達の涙をさそひます。亡くなられる少し前に「私の全生涯の仕事は此の法華経をあなたの御手許に届け、そして其の中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られる事をお願ひする外何もありません」と友人知己に対して遺言されて居られます。尚この法華経は故人の遺志に依り北向氏の厳密な校正を経て印刷の上お手許に差上げる事になつて居りますが、相当の日数を要するものと思はれます。その立派さにたゞ頭が下がるだけです。猶故人は死後に於いて友人知己に迷惑の及ぷことを極力恐れて居りましたので(何といふ有難い謙譲さでせう)お内の方からはあらためて御知らせ申さぬ由ですので、生前親しくしていたゞいた私達が皆様に代はらしていたゞいて御知らせ申し上げる次第であります。
追つて葬式は二十三日午後一時半から当町安浄寺で行はれます。
昭和八年九月二十二日
藤原嘉藤治
関 徳 弥
森 惣 一
母木 光
梅野 健三 」
また、本日付「岩手日報」朝刊三面に、「父政次郎 外親戚一同」による「長男賢治」の死亡公告が掲載された。
「長男賢治儀予て病気中の処養生不相叶二十一日午後一時半死去致候ニ付此段謹告仕候
追テ葬儀ハ九月二十三日午後二時安浄寺ニ於テ仏式相営ミ可申候」
さらに、本日付「岩手日報」夕刊二面には、次の記事が掲載された。
「詩人宮沢賢治氏
きのふ永眠す
日本詩壇の輝しい巨星墜つ
葬儀はあす執行
〔写真〕
花巻町豊沢町宮沢政治郎氏長男宮沢賢治氏はかねて病気中のところ最近小康の状態にあつたが廿一日午後一時半病あらたまり遂に永眠したが享年二十八(ママ)、氏は先に盛岡高農を卒業、花巻農学校に職を執られ、また田中智学氏のもとにあつて深く仏教をきわめ大正十三年心象スケツチ詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』を発表して日本詩壇に嘗てない特異の存在を示し新しい巨星として全日本詩壇注目のうちに詩作を発表してゐたもので詩、童話その他数十巻の未刊の作品を所蔵され、その非ジヤーナリスチツクの故に高名であり『春と修羅』の如きは刊行当時発行所の不誠意から夜店で売られたりしたが現在は所持者は卅円でも手離さない古典的な名詩集となつてゐる、尚葬儀は廿三日午後二時から花巻町安浄寺で執行される/(写真は故宮沢賢治氏)」
