賢治 日めくり ~8月23日~
- 1917年8月23日(木)(賢治20歳)、8月28日からの江刺郡地質調査を前に、盛岡高等農林学校農学科第二部の同級生原勝成を自宅に招いて、食事を出して歓待した。
- 1926年8月23日(月)(賢治29歳)、旧暦7月16日でお盆の中日にあたるこの日を、羅須地人協会の創立日にしたいと、6月末頃に元教え子の菊池信一に語っていたというが、実際に何かが催されたという記録はない。
- 1933年8月23日(水)(賢治36歳)、8月19日に来訪した詩人母木光から礼状が届いたのに対して、返事を書いた(書簡484)。母木が文壇で活躍することを願い、創作生活について自身の体験もまじえながら、次のように書いている。
「どうか早く大広場で華々しくやってみせて下さい。たゞおからだだけは生意気な申し分ですがあくまでお大切にねがひます。何でも、何か書いてしまったあと胸につかえたものが残ってゐるやうならそれを消してからでないとあと書いてはいけないやうです。それははじめはたゞの感じだけのやうでもだんだん溜って重くなってくるときっと胸へ何か悪いものがやってくるらしいです。昔の漢詩人たちなど、この溜ったものを原動力にして更に仕事し、慷慨の歌悲傷の歌を生々と作りだしたりしたやうですが、たしかにこれはある点を超えてはとりかへしのつかないものになるやうです。寧ろ時々に白雲中に薬をとったり、夕陽に些少の薪を負ひ、日中にキャベヂの虫を拾ふといふ風にしながら読書述作を重ねられたらどこまでも疲労といふことなしに進まれるだらうと思ったり、人のことですからいろいろ勝手に考へてゐる次第、私のかういふつまづきに免じて悪しからずご了解ください。 まづは。」