賢治 日めくり ~8月21日~

- 1919年8月21日(木)(賢治22歳)、この日頃、山梨県から選ばれて「青年指導者講習」を受けるために上京中の親友保阪嘉内にあてて、手紙を書いた(書簡154)。
「…私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道に踏み入ったな。」 おゝ、邪道 O, JADO! O, JADO! 私は邪道を行く。見よこの邪見者のすがた。学校でならったことはもう糞をくらへ。アンデサイトアグロメートが何とされた。うまいことを考へることは広告詐欺師へ任せる。世間がわき立たうが八釜しからうがみんなおれのこのやかましさ、かなしさ苦しさの一部に過ぎない。
成金と食へないもののにらみ合か。へっへ労働者の自覚か。へい結構で。どうも。ウヘッ。わがこの虚空のごときかなしみを見よ。私は何もしない。何もしてゐない。幽霊が時々私をあやつって裏の畑の青虫を五疋拾はせる。どこかの人と空虚なはなしをさせる。正に私はきちがいである。諸君よ。諸君よ。
私のやうにみつめてばかりゐるとこの様なきちがいになるぞ。…」