賢治 日めくり ~3月20日~

1911年3月20日(月)(賢治14歳)、盛岡中学校二年の学年試験が終わり、終業式が行われた。賢治は前年に引き続き、精勤賞の賞状(右写真)を受けた。
- 1912年3月20日(水)(賢治15歳)、盛岡中学校三年の終業式が行われた。
- 1916年3月20日(月)(賢治19歳)、晴れ。盛岡高等農林学校の修学旅行として前日に夜行列車で盛岡を発った賢治ら一行は、午前5時40分に上野駅に到着した。
電車で宿に行って朝食をとった後、西ヶ原農事試験場へ行き、煙害試験、肥料試験などを見学して、製茶部の説明を聞いた。合間には、桜の名所荒川堤も案内してもらったという。次に隣の高等蚕糸学校と製糸工場を見学した後、さらに関東酸曹株式会社にも行ったが、ここは1月から見学不可となっていて入れなかった。
- 1918年3月20日(水)(賢治21歳)、13日に突然盛岡高等農林学校を除籍になり、郷里に帰った親友保阪嘉内にあてて、手紙を出した(書簡50)。
「先日は忙しく御別れ致しました。…繰り返す事ですが今度は私などは卒業してしまひ、あなたはこの様な事になり、何とも申し訳ありません。…
保阪さん、みんなと一諸でなくても仕方ありません。どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間は静に深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか。やがて私共が一切の現象を自己の中に抱蔵する事ができる様になつたらその時こそは高く高く叫び起ち上り、誤れる哲学や御都合次第の道徳を何の苦もなく破つて行かうではありませんか。…
新しく書き出します。保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。又退学になりましたかなりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあなたの事ときめましたか。又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません。退学なんと云ふ事はどこにもありません。あなたなんて全体始めから無いものです けれども又あるのでせう 退学になったり今この手紙を見たりして居ます これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました 妙法蓮華経が手紙を読みます 下手な字でごつごつ書いてあるらしい手紙を読みます 手紙はもとより誰が手紙ときめた訳でもありません 元来妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経です。あゝ生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云ひます。只南無妙法蓮華経 只南無妙法蓮華経…
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 どうかどうか保阪さん、すぐに唱へて下さいとは願へないかも知れません 先づあの赤い経巻は一切衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され本気に一品でも御読み下さい…」
ここに登場する「あの赤い経巻」とは、高橋勘太郎から父政次郎に贈られ、賢治が読んで感動にふるえ、彼の法華経信仰のきっかけとなった島地大等編著『漢和対照 妙法蓮華経』の高橋の署名本そのものである。しばらく前に賢治はこれを、嘉内に贈呈していた。
しかし、「退学なんと云ふ事はどこにもありません」と言われても、現実に退学になっている嘉内の心が慰まるとも思えず、ここには賢治の唯心論の独我論的側面が露呈していると言わざるをえない。この頃の賢治の態度は、失意の親友の心を思いやるというよりも、とにかく嘉内を自分の人生の道連れとして確保しようと必死になっているように見える。
- 1922年3月20日(水)(賢治26歳)、「恋と病熱」(『春と修羅』/春と修羅)を、スケッチした。
- 1926年3月20日(土)(賢治29歳)、花巻農学校において、国民高等学校第九回講義を行った。この日は、前回に引き続き、「農民(地人)芸術概論」の、「農民芸術の分野」を講じた。
伊藤清一の講義ノートには、次のような記載がある。
「声に曲調節奏あれば声楽をなし音が然れば器楽をなす
ベートーベン 運命シンフォニー
語誠の表現あれば散文をなし節奏あれば詩歌をなす、
行動誠の表現あれば黙劇をなし節奏あれば舞踊となる
之れからの芝居は人生劇場なり即ち
イーハトーブ農民劇団なり…」
またこの日、花巻農学校の退職を前にして、一年生の教え子高橋武治に署名入りの自分の写真(右写真)を贈った。高橋(のちに改姓して沢里)は、「三八四 告別」(「春と修羅 第二集」)のモデルと言われ、生涯賢治の薫陶を受けた。
- 1927年3月20日(日)(賢治30歳)、羅須地人協会の集会を行った。講義は「エスペラント」か「地人芸術概論」のいずれかであったと推定されている。
- 1928年3月20日(火)(賢治31歳)、本日付「岩手日報」三面に、「啄木の命日に/文芸講演会/十三日花巻で」の見出しで聖燈社主催の講演会の予告記事が掲載されたが、講師の一人として賢治の名前が挙げられている。
- 1932年3月20日(日)(賢治35歳)、東北砕石工場長鈴木東蔵あてに手紙を出し、盛岡高等農林学校の村松教授が京都へ栄転になるので工場からも謝状を出しておくことを依頼し、石灰肥料の新価格を問い合わせ、広告が到着したことを知らせた(書簡411)。
- 1933年3月20日(月)(賢治36歳)、本日付で『現代童話名作集』上・下(文教書院)が刊行され、上巻に「北守将軍と三人兄弟の医者」、下巻に「グスコーブドリの伝記」が収録された。
またこの日、鈴木東蔵あてに手紙を送り(書簡463)、前日鈴木より依頼のあった新規取引の件について、父とも相談したが未面識の所との文面取引は不適切とのことで、断りの連絡をした。セメント袋は、今朝400枚を発送したという。