賢治 日めくり ~11月27日~
- 1922年11月27日(月)(賢治26歳)、この日は朝からみぞれが降って寒かったが、付き添いの藤本看護婦がいつものようにトシの脈をとると結滞が甚だしく、すぐに主治医の藤井謙蔵医師が呼ばれた。医師は羽織袴姿で看護婦を伴って現れ、診察の結果ではもう時間の問題とのことであった。医師は退出し、両親は家族親戚に電話をした。
この一日の様子は、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」(『春と修羅』/無声慟哭)という三部作からある程度推測される。死ぬ間際のトシが賢治や父母とかわした会話も、おおむね正確に記録されているのではないだろうか。
夜8時半、トシは「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」と言って、まもなく意識も混濁した。賢治はトシの耳もとで題目を叫び、トシは二度うなずくようにして息を引き取った。享年24歳。
賢治は押入に頭を突っ込んで虎のように泣いたという。
この夜、妹と親類の女性たちは、遅くまで経かたびらを縫っていたが、うとうとした妹シゲは夢を見た。花を摘みながらさびしい野原を行くと、向こうから長い髪を下げたトシがやって来て、「黄色い花コ、おらもとるべがな」と言ったという。
- 1923年11月27日(火)(賢治27歳)、本日付の国柱会機関紙「天業民報」三面に、「国難救護 正法宣揚 同士結束」基金の募金者として、「金拾円(救護) 岩手 宮沢賢治殿」と氏名が掲載された。
- 1924年11月27日(木)(賢治28歳)、花巻農学校の元同僚の奥寺五郎が、結核のため死去した。奥寺は賢治と小学校の同級生で、前年に病気退職してからは無収入となっていたため、毎月賢治が自分の月給の中から30円を届けていた。
- 1931年11月27日(金)(賢治35歳)、東北砕石工場長鈴木東蔵からの見舞状に対して、家人の代筆で返事を書いた(書簡398)。
「益々御清勝之御事奉賀上候
陳者毎度拙者病状御慰問被成下難有奉深謝候 御庇様にて日増軽快に候へ共寒さに向ひ候故尚自重罷在候 今后事業の方にも協力申上度と存居り候 一層御自重願上候
尚小岩井の方如何相成候哉 何卒一段落相付け被下候様偏に奉願上候
先は御返事旁々御願迄申上候」
最後に「小岩井の方」として触れられている件は、小岩井農場から大量の注文を受けながらも、製品の納入が間に合わず契約破棄を通告されていた問題で、工場としてはかろうじて発送を続けていたが、ますます資金繰りは苦しくなっていった。