毘沙門天の宝庫
さっき泉で行きあった
黄の節糸の手甲をかけた薬屋も
どこへ下りたかもう見えず
あたりは暗い青草と
麓の方はたゞ黒緑の松山ばかり
東は畳む幾重の山に
日がうっすりと射してゐて
谷には影もながれてゐる
あの藍いろの窪みの底で
形ばかりの分教場を
菊井がやってゐるわけだ
そのま上には
巨きな白い雲の峯
ずゐぶん幅も広くて
南は人首あたりから
北は田瀬や岩根橋にもまたがってさう
あれが毘沙門天王の
珠玉やほこや幢幡を納めた
巨きな一つの宝庫だと
トランスヒマラヤ高原の
住民たちが考へる
もしあの雲が
旱のときに、
人の祈りでたちまち崩れ
いちめんの烈しい雨にもならば
まったく天の宝庫でもあり
この丘群に祀られる
巨きな像の数にもかなひ
天人互に相見るといふ
古いことばもまたもう一度
人にはたらき出すだらう
ところが積雲のそのものが
全部の雨に降るのでなくて
その崩れるといふことが
そらぜんたいに
液相のます兆候なのだ
大正十三年や十四年の
はげしい旱魃のまっ最中も
いろいろの色や形で
雲はいくども盛りあがり
また何べんも崩れては
暗く野はらにひろがった
けれどもそこら下層の空気は
ひどく熱くて乾いてゐたので
透明な毘沙門天の珠玉は
みんな空気に溶けてしまった
鳥いっぴき啼かず
しんしんとして青い山
左の胸もしんしん痛い
もうそろそろとあるいて行かう