一〇八三

     和風は河谷いっぱいに吹く

                  一九二七、八、二〇、

   

   南からまた西南から

   和風は河谷いっぱいに吹く

   起きあがったいちめんの稲穂を波立て

   葉ごとの暗い露を落して

   和風は河谷いっぱいに吹く

   あらゆる辛苦の結果から

   七月稲はよく分蘖し

   豊かな秋を示してゐたが

   この八月のなかばのうちに

   十二の赤い朝焼けと

   湿度九〇の六日を数へ

   稲は次々穂を出しながら

   茎稈弱く徒長して

   しかも次第に結実すれば

   ついに昨日の雷雨に耐えず

   およそ相当施肥をも加へ

   やがての明るい目標を

   作らうとした程度の稲は

   次から次と倒れてしまひ

   こゝには雨のしぶきのなかに

   とむらふやうなつめたい霧が

   倒れた稲を被ってゐた

   しかもわたくしは予期してゐたので

   やがての直りを云はうとして

   きみの形を求めたけれども

   きみはわたくしの姿をさけ

   雨はいよいよ降りつのり

   遂にはこゝも水でいっぱい

   晴れさうなけはひもなかったので

   わたくしはたうたう気狂ひのやうに

   あの雨のなかへ飛び出し

   測候所へも電話をかけ

   続けて雨のたよりをきゝ

   村から村をたづねてあるき

   声さへ枯れて

   凄まじい稲光のなかを

   夜更けて家に帰って来た

   さうして遂に睡らなかった

   さうしてどうだ

   今朝黄金の薔薇東はひらけ

   雲ののろしはつぎつぎのぼり

   高圧線もごろごろ鳴れば

   澱んだ霧もはるかに翔けて

   見給へたうたう稲は起きた

   まったくのいきもののやうに

   まったくの精巧な機械のやうに

   稲がそろって起きてゐて

   そのうつくしい日だまりの上を

   赤とんぼもすうすう飛ぶ

   あゝわれわれはこどものやうに

   踊っても踊っても尚足りない

   もうこの次に倒れても

   稲は断じてまた起きる

   今年のかういふ湿潤さでも

   なほもかうだとするならば

   もう村ごとの反当に

   四石の稲はかならずとれる

   森で埋めた地平線から

   青くかゞやく死火山列から

   風はいちめん稲田をわたり

   また栗の葉をかゞやかし

   汗にまみれたシャツも乾けば

   熱した額やまぶたも冷える

   じつにさわやかな蒸散と

   透明な汁液(サップ)の移転

   この秋こそは祭りの晩に

   赤シャツを着た道化師に

   わたしの粟も豆もたべてくださいと

   みんなでそれを投げたやうな

   あゝいふ豊かな年が来る

   あゝわれわれは曠野のなかに

   芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに

   素朴なむかしの神々のやうに

   べんぶしてもべんぶしても足りないでないか

   

 


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