風の偏倚

   

   感官の遥かな果を

   風が偏倚して過ぎたあとでは

   クレオソートを塗つたばかりの電柱や

   逞しくも起伏するそれら暗黒山稜(あんこくさんりよう)

   研ぎ澄まされた天河石天盤の半月

   すべてこんなにも錯綜し

   古めかしい月汞にみちた景観が

   みなすきとほつて巨大な過去に変ってくる

   五日の月はさらに小さく副生し

   ちぎれた一むらの蛋白彩の雲が

   その尖端をかすめて行けば

   そのまん中の厚いところは黒いのです

   (風と嘆息(たんそく)の中(なか)

    あらゆる世界の因子(いんし)がある)

   またきららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と

   星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲

     (それはつめたい虹をあげ)

   いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために

   みちはなんべんもくらくなり

      (鶯沢の鉱山が

       盛んにやってゐたころは

       月あかりがみちにふると

       きっと硫黄のにほひがたった

       いまはその小さな硫黄の粒も

       風や酸素に溶かされてしまつた)

   じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で

   月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる

      (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)

   どんどん雲は月を研いて飛んでゆく

   ひるまのはげしくすさまじい雨が

   塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ

      (杉の列はみんな

       黒真珠の保護色)

   月の彎曲の内側から

   白いあやしい気体が噴かれ

   そのために却つて雲が一きれとかされて

   そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと

   苹果の未熟なハロウとが

   あやしく天を覆ひだす

   (杉の列には山鳥がいつぱいに潜(ひそ)んで

    ペガススのあたりに立つてゐる)

   いま雲は一せいに散兵をしき

   極めて堅実にすすんで行く

   おゝ私のうしろの松倉山には

   用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり

   川尻の断層地震のとき以来

   息を殺してまつてゐて

   腕巻時計を光らし過ぎれば落ちてくる

   しかも山から生えた木は

   敬虔に天に祈つてゐる

   空気の透明度は水より強く

   辛うじて赤いすすきの穂がゆらぐ

     (どうしてどうして

      松倉山の木はみんな

      ひどくひどく風にあらびてゐるのだ

      あのごとごといふのがそれだ)

   呼吸のやうに月光はまた明るくなり

   雲の遷色とダムを超える水の音

   わたくしの黒い帽子の静寂となまぬるい風の塊

   またくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび

    レールとみちの粘土の可塑性

   月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろに変ってゐる

 

 


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