心象スケツチ外輪山
宮 沢 賢 治
(月(つき)は水銀(すいぎん)、後夜(のちよ)の喪主(もしゆ)
火山礫(くわさんれき)は夜(よる)の沈澱(ちんでん)
火口(くわこう)の巨(おほ)きなえぐりを見(み)ては
たれもみんな驚(おどろ)く筈(はず)だ。
風としづけさ
いま漂着(へうちやく)する薬師外輪山(やくしそとわやま)
一竹(ちく)の石標(せきへう)もある
月光(げつこう)は水銀(すいぎん)、月光(げつこう)は水銀(すいぎん)。)
『こんなことは実(じつ)にまれです
向(むか)ふの黒(くろ)い山(やま)……つて、それですか
それはこゝの続(つゞ)きです
ここの続(つゞ)きの外輪山(そとわやま)です
あすこのてつぺんが頂上(てうぜう)です
向(むか)ふの?
向(むか)ふのは御室(おむろ)火口(くわこう)です
これから外輪山(そとわやま)をめぐるのですけ
れどもいまはまだなんにも見(み)え
ませんから
も少(すこ)し明(あか)るくなつてからにしませ
う
えゝ太陽(たいよう)が出(で)なくても
あかるくなつて
西岩手火山(にしいはてくわざん)の方(ほう)の火口湖(くわこうこ)やなにか
見(み)えるやうにさへなればいゝでん
す
お日(ひ)さまはあすこらへんで拝(をが)みま
せう。』
(黒(くろ)い絶頂(ぜつてう)の右肩(みぎかた)と
そのときのまつかな太陽(たいよう)
私(わたし)は見(み)てゐる。
あんまり真赤(まつか)な幻想(げんそう)の太陽(たいよう)た。)
『今(いま)何時(なんじ)です?
三時(じ)四十分(ぷん)?
丁度(てうど)一時間(じかん)
いや四十分(ぷん)ありまずから
寒(さむ)い人(ひと)は提灯(てうちん)でも持(も)つて
この岩(いは)かげにでも居(ゐ)て下(くだ)さい。』
(あゝ、暗(くら)い雲(くも)の海(うみ)だ。)
『向(むか)ふの黒(くろ)いのはたしかに早池峰(はやちね)
です
線(せん)になつて浮(う)き上(あが)つてるのは北上(きたかみ)
山地(さんち)です
うしろ?
あれですか
あれは雲(くも)です、柔(やはら)らかさうですね、
雲(くも)が駒(こま)ケ岳(だけ)に被(かぶ)さつたのです
水蒸気(すいぜうき)を含(ふく)んだ風(かぜ)が
駒(こま)ケ岳(だけ)にぶつつかつて
上(うへ)にあがり
あんなに雲(くも)になつたのです。
鳥海山(てうかいさん)は見(み)えないやうです
けれども
夜(や)があけたら見(み)えるかもしれませ
んよ。』
(柔(やはら)かな雲(くも)の波(なみ)だ
大(おほ)きなうねりなら
月光(げつこう)会社(くわいしや)の五千噸(トン)の汽船(きせん)は
動揺(どうよう)を感(かん)じはしないだらう
その質(しつ)は
蛋白石(たんぱくせき)だ、Glass-wool た
あるひは水酸化(すいさんくわ)礬土(と)の沈澱(ちんでん)だ。)
『実際(じつさい)こんなことは稀(まれ)なのです
私(わたし)はもう十何(なん)べんも来(き)てゐますが
こんなにしづかで
そして暖(あたゝか)なことはなかつたので
す
麓(ふもと)の谷(たに)の底(そこ)よりも
さつきの九合(ごう)の小屋(こや)よりも
却(かへ)つて暖(あたゝか)なくらゐです
今夜(こんや)のやうなしづかな晩(ばん)は
つめたい空気(くうき)は下(した)へ沈(しづ)んで
霜(しも)さへ降(ふ)らせ
暖(あたゝか)い空気(くうき)は割合(わりあひ)に軽(かる)くて
上(うへ)に浮(うか)んで来(く)るのです
これが気温(きおん)の逆転(ぎやくてん)てす。』
御室(おむろ) 口(こう)の盛(さか)りあがりは
月(つき)のあかりに照(てら)らされてゐるのか
それともおれたちの提灯(てうちん)のあか
りか
提灯(てうちん)だといふのは勿体(もつたい)ない
ひわいろで暗(くら)い。)
『それではもう四十分(ぷん)ばかり
寄(よ)り合(あ)つて待(ま)つておいでなさい
さうさう、北(きた)はこつちです
北斗(ほくと)七星(せい)は
いま山(やま)の下側(したがは)に落(お)ちてゐますが
北斗星(ほくとせい)はあれです
それは小熊星(こぐまほし)といふ
あの七つからわかります
それから向(むか)ふに
縦(たて)に三つならんだ星(ほし)が見(み)えませう
下(した)には斜(なな)めに房(ふさ)が下(さが)つたやうになり
右(みぎ)と左(ひだり)とには
赤(あか)と青(あを)と大(おほ)きな星(ほし)がありませう
あれはオリオンです、オライオン
です
あの房(ふさ)の下(した)のあたりに
星雲(せいうん)はあるといふのです
今(いま)見(み)えません
その下(した)のは大犬(おほいぬ)のアルフア
冬(ふゆ)の晩(ばん)いちばん光(ひか)つて目立(めた)つやつ
です
夏(なつ)の蝎(かつ)とうら表(おもて)てす
さあみなさんで勝手(かつて)におあるきな
さい
向(むか)ふの白(しろ)いのでうか
雪(ゆき)ぢやありません
けれども行(い)つてごらんなさい
まだ一時間(じかん)もありますから
私(わたし)もスケツチをとります。』
(はてな、私(わたし)の帳面(てうめん)の
書(か)いた分(ふん)がたつた三枚(まい)になつて
ゐる
ど(数字不明)
殊(こと)(五字不明)光(こう)のトリツクだ
藤原(ふぢはら)が提灯(てうちん)を見(み)せてゐる
あゝ頁(ページ)が折(お)れ込(こ)んでゐる
さあでは私(わたし)はひとり行(ゆ)かう
外輪山(そとわやま)の自然(じぜん)な美(うつく)しい歩道(ほどう)の上(うへ)
を
月(つき)の半分(はんぶん)は赤銅(しやくどう)地球照(ちきゆうしやう)。)
『お月(つき)さまには黒(くろ)い処(ところ)もある』
『後藤(ごとう)又兵衛(またへゑい)いつつも拝(をが)んだづな
す。』
(私(わたし)のひとりごとの反響(はんけう)に
小田島(をだしま)治衛(はるゑ)が云(い)つてゐる。)
『山中鹿之助だらう。』
(もうかまはない、歩(ある)いていゝ
どつちにしてもいゝことなのだ
二十五日(にち)の錫(すず)のあかりに照(てら)されて
薬師火口(やくしくわこう)の外輪山(そとわやま)をあるくとき
私(わたし)は地球(ちきう)の華族(くわぞく)である
蛋白石(たんはくせき)の雲(くも)は遥(はるか)に湛(たゝ)ヘ
オリオン、金牛(きんぎう)、もろもろの星座(せいざ)
澄(す)み切(き)り澄(す)みわたつて
瞬(またゝ)きさへもすくなく
私(わたし)の額(ひたい)の上(うへ)にかがやき
(さうだ、オリオンの右肩(うけん)から
(ぼんたうに鋼青(こうせい)の壮麗(そうれい)が
ふるえて私(わたし)にやつて来(く)る。)
三つの提灯(てうちん)は夢(ゆめ)の火口原(くわこうけん)の
白(しろ)いものまで降(お)りてゐる
『雪(ゆき)ですか、雪(ゆき)ぢやないでせう』
『いゝえ』(困(こま)つたやうに返事(へんじ)して
ゐる)
雪(ゆき)ぢやないのだ、仙人草(せんにんそう)のくさだ
らうか
さうでなければカオリンだ
残(のこ)りの一つの提灯(てうちん)は
一升(せう)のところに停(とま)つてゐる
それは河村慶助(かはむらけいすけ)が
外套(ぐわいとう)の袖(そで)にぼんやり手(て)を引(ひ)つ込(こ)め
てゐるのだ
『御室(おむろ)の方(ほう)の火ロ(くわこう)へでもお入(はい)りな
さい
噴火口(ふ くわこう)へでも入つてごらんなさい
硫黄(いおう)のつぶは拾(ひろ)へないでせうか』
よく斯(か)んなに声(こゑ)がとゞく
天(てん)にはメガホーンもしかけてある
提灯(てうちん)が赤(あか)く三つ集(あつ)まり
御室(ごむろ)火口(くわこう)の縁(ふち)までのぼり
しばらく躊躇(ちうちよ)してゐるやうだ
『先生(せんせい)中(なか)さ入(はい)つてもいがべすか。』
『えゝ、おはいりなさい。大丈夫(だいぜうぶ)で
す。』
提灯(てうちん)が三つ沈(しづ)んでしまふ
そのでこぼこのまつ黒(くろ)の線(せん)
少(すこ)しかなしい
けれどもこれは一体(いつたい)何(なん)といふこと
だ
大(おほ)きな帽子(ぼうし)をかぶり
ちぎれた朱子(しゆす)のマントを着(き)て
薬師火口(やくしくわこう)の外輪山(そとわやま)の
しづかな月明(つきあか)りを行(ゆ)くといふのは
それからこれは何(なん)の石標(せきへう)だ
下向(げこう)の道(みち)と書(か)いてあるに相違(さうい)ない
火口(くわこう)の中(なか)から提灯(てうちん)が出(で)て来(き)た
宮沢(みやさは)の声(こゑ)もきこえる
雲(くも)の海(うみ)のはてはたんだん平(たひら)になる
それは一つの雲平線(くもへいせん)をつくるのだ
雲平線(くもへいせん)をつくるのだといふのは
月(つき)の光(ひかり)の左(ひだり)から
右(みぎ)へすばやく擦過(さつくわ)した
一つの夜(よる)の幻覚(げんかく)だ
いま火口原(くわこうげん)の中(なか)に
一点(てん)白(しろ)く光(ひか)るもの
私(わたし)を呼(よ)んでゐる呼(よ)んでゐるのか
私(わたし)は気圏(きけん)オペラの役者(やくしや)です
鉛筆(えんぴつ)のさやは光(ひか)り
速(すみやか)に指(ゆび)の黒(くろ)い影(かげ)はうごき
唇(くちびる)を円(まる)くして立(た)つてゐる私(わたし)は
たしかに気圏(きけん)オペラの役者(やくしや)です
また月光(げつこう)と火山塊(くさんくわい)のかげ
向(むか)ふの黒(くろ)い巨(おほ)きな壁(かべ)は
熔岩(ようがん)か集塊岩(せうかいがん)、力強(ちからつよ)い肩(かた)だ
とにかく夜(よ)があけてお鉢(はち)廻(まは)りのと
きは
あすこからこつちへ出(で)て来(く)るのだ
なまぬるい風(かぜ)だ
これが気温(きおん)の逆転(ぎやくてん)だ
(つかれてゐるな、私(わたし)はやつぱり
睡(ねむ)いのだ)
火山弾(くわざんだん)には黒(くろ)い影(かげ)
その妙好(めうこう)の火口丘(くわこうきう)には
幾条(いくぜう)かの軌道(きどう)のあと
鳥(とり)の声(こゑ)!
鳥(とり)の声(こゑ)!
海抜(かいばつ)六千八百尺(しやく)の
月明(つきあ)をかける鳥(とり)の声(こゑ)
鳥(とり)はいよいよしつかりと啼(な)く。
私(わたし)はゆつくりと踏(ふ)み
月(つき)はいま二つに見(み)える
やつぱり私(わたし)の乱視(らんし)なのだ。
かすかに光(ひか)る火山塊(くわさんくわい)の一つの面(おも)
オリオンば幻怪(げんくわい)
月(つき)のまはりは熟(じゆく)した瑪瑙(めのり)と葡萄(ぶどう)
あくびと月光(げつこう)の動転(どうてん)
(あんまりはね歩(あゆ)ぐなぢやい
汝(うな)ひとりだらいがべあ
子供等(わらしやど)も連れて、目(め)に遭(あ)つても
汝(うな)ひとりであすまないんだぢや
い)
火口丘(くわこうきう)の上(うへ)には天(あま)の川かわの小(ちひ)さな爆
発(ばくはつ)
みんなのデカンシヨの声(こゑ)も聞(きこ)える
月(つき)のその銀(ぎん)の角(つの)の端(はし)が
潰(つぶ)れてすこうし円(まる)くなる。
天(てん)の海(うみ)とオーパルの雲(くも)
暖(あたゝか)い空気(くうき)は
ふつと撚(より)になつて飛(と)ばされて来(く)る
きつと屈折率(くつせつりつ)も低(ひく)く
濃(こ)い蔗糖溶液(たうやうえき)に
また水(みづ)を加(くは)へたやうなのだらう。
東(ひがし)は淀(よど)み
提灯(てうちん)は火口(くわこう)の上(うへ)に立(た)つ
また口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いてゐる
私(わたし)は戻(もど)る
私(わたし)の影(かげ)を見(み)たのか、提灯(てうちん)も戻(もど)る。
(私(わたし)の影(かげ)は鉄(てつ)いろの背景(はいけい)の
一人(り)の修羅(しゆら)に見(み)える筈(はず)だ)
さう考(かんが)へたのは間違(まちが)ひらしい
とにかくあくびと影法師(かげぼうし)
空(そら)のあの辺(へん)の星(ほし)は微(かす)かな散点(さんてん)
則(すなは)ち空(そら)の模様(もよう)がちがつてゐる
そして今度(こんど)は月(つき)が褰(しづ)まる。