異空間・異時間の認識

 「銀河鉄道の夜」のプリオシン海岸で、牛の祖先の化石を発掘している大学士とジョバンニは、次のような会話をします。

「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。……」

 ここで大学士は、化石を発掘する目的を、「標本にする」ためではなくて、「証明するに要る」のだと言っています。
 では、何を証明するためなのでしょうか。

 普通に考えると、古生物学者が太古の化石によって証明しようとするのは、昔の生物の体の形態とか、生態とか、現在の類似種との系統関係とか、あるいは当時のその場所の気候や環境などかと思います。しかし、大学士の答えはそうではなくて、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ」と言うのです。
 何かちょっとわかりにくい理屈ですが、これはいったいどういうことなのでしょうか。


 ちょうど1か月前の7月23日に、賢治が修学旅行で見学した「滋賀県立農事試験場」の場所を探る記事を掲載していましたが、その後コメントにてご指摘をいただき、旧東海道との位置関係について、再検討をしました。その結果、前回の推定場所はかなりずれていたらしいことがわかりましたので、調査しなおした結果を、ここにあらためて掲載いたします。


伊与原新『青ノ果テ』

 例年ならイーハトーブに出かけているお盆休みですが、今年はどこへ行くあてもなく、せめて本の世界で旅ができたらということで、花巻を舞台とした青春ミステリー『青ノ果テ──花巻農芸高校地学部の夏──』を読んでみました。

青ノ果テ :花巻農芸高校地学部の夏 青ノ果テ : 花巻農芸高校地学部の夏
伊与原 新 (著)

新潮社 (2020/1/27)

Amazonで詳しく見る

 型破りの童話「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」の終章で、世界裁判長のネネムは、サンムトリ火山の噴火について次のように述べます。

「……僕の計算によると、どうしても近いうちに噴き出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯の圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしか耐へない筈なんだ。それに噴火をやらんといふのはをかしいぢゃないか。僕の計算にまちがひがあるとはどうもさう思へんね。」

 ネネムが居並ぶ判事たちの前でこのように自説を開陳した直後に、実際サンムトリ火山は物凄い噴火を始め、感極まった上席判事は、「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻までが裁判長の神聖な裁断に服するのだ」と言います。他のみんなも「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長」と歓声を上げ、これに気をよくしたネネムは「正によろこびの絶頂」において立ち上がり、自讃の歌を高く歌い出します。そしてその歌は、次のように締めくくられます。

いまではおれは勲章が百ダアス
藁のオムレツももう食べあきた。
おれの裁断には地殻も服する
サンムトリさへ西瓜のやうに割れたのだ。

 これに続いて、部下の三十人の判事や検事たちも一緒に立ち上がり、「フィーガロ、フィガロト、フィガロット」などと叫びながら、皆で狂喜乱舞を始めるのですが、以上の経過を読んできてちょっと気になるのは、「ネネムの意志と火山噴火の関係」です。


SSL認証とURL変更

 インターネット接続の安全性を高めるため、当サイトはこのたび SSL 認証を取得しました。
 これに伴って URL も、従来の「http://www.ihatov.cc/」から、「https://ihatov.cc/」に変わりました。頭が「https」になっているのがポイントです。(www は、あってもなくても結果は同じなのですが、簡略化のために、この際「なし」で統一することにしました。)

 旧 URL を入力しても自動的に新 URL に転送されるので、そのままでも問題なく見ることはできるのですが、当サイトをブックマーク登録していただいている方におかれましては、お手数ですが「https://ihatov.cc/」に直しておいていただければ幸いです。その方が、多少とも円滑に表示されると思います。

 この新 URL でアクセスしていただくと、ブラウザ上部の URL 欄の左に「錠前」のアイコンが表示されると思います。通信が暗号化されている印です。


サイト内検索設置

 ページの右上の方に、新しい「検索窓」を設置しました。

 今回の「検索」では、ご覧のように入力窓の下に、「サイト内全文検索」と「詩テキスト検索」という2つのラジオボタンが付いていて、このいずれかのボタンを選択することによって、検索を行う範囲を変えられるようになっています。
 当サイト内には、「宮澤賢治全詩一覧」や『春と修羅』草稿一覧「第二集」草稿一覧「第三集」草稿一覧などからリンクされている、賢治の全詩作品のテキストがアップロードされているとともに、過去のブログ記事や、「歌曲」「石碑」「経埋ムベキ山。」その他もろもろのページが収められているのですが、「サイト内全文検索」を実行すると、これら全ての文書を対象に検索が行われるのに対して、「詩テキスト検索」を行うと、これらのうち賢治の詩作品のテキストだけが検索対象となります。

 たとえば、「心象」について、賢治が詩の中で言及している箇所と私がブログ記事で触れている箇所を、併せてリストアップするのならば、検索窓に「心象」と入れて「サイト内全文検索」を選んで検索すればよいわけですし、またたとえば賢治が詩の中で、「青」と「蒼」と「碧」をどのような文脈で使用しているか調べてみたいのならば、それぞれの文字を入れて「詩テキスト検索」を選び、虫眼鏡のアイコンをクリックしていただければよいわけです。


 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という分野においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。


廣川松五郎のアザミ

 サイトのデザインを更新してから3週間ですが、この間に上のタイトル画像の色彩を変な風にしてみたり、ナビゲーションバーに「その他」や「メール」を並べて、「その他」の内容を一部 CMS 化したり、いろいろいじっています。本文右側の「サイドバー」と呼ばれる部分の背景には、20200614a.png詩集『春と修羅』の表紙のアザミの文様を入れてみたのですが、あらためて眺めてみて、やっぱりこれは素晴らしいデザインですね。
 ここに描かれているアザミのシルエットは、形としては写実的でありながら独特のリズム感があり、高い装飾性も備えています。何となく、「春と修羅」の一節「いちめんのいちめんの諂曲模様…」というフレーズさえ連想します。

 『春と修羅』出版に際して、賢治のためにこの魅力的な図案を描いてくれたのは、当時の気鋭の染織家・工芸作家で歌人でもあった、廣川松五郎でした。廣川は賢治より7歳上で、1914年に東京美術学校(現東京藝術大学)図案科を卒業し、この『春と修羅』の装幀をした1924年には日本美術協会審査員となり、翌1925年は巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品して銀賞を獲得しています。1930年に帝展無鑑査となって、1935年には東京美術学校教授に就任するなど、日本の染織界の第一人者と言える存在でした。

 この廣川松五郎が、いったいどういう縁で無名の田舎教師の処女詩集のために図案を描いてくれたのかという疑問に、間接的ながらヒントを与えてくれるのが、賢治の親戚である関徳也の、次の文章です。


 先日、中村稔さんが『宮沢賢治論』を刊行されました。

宮沢賢治論
中村稔 (著)

青土社 (2020/4/24)

Amazonで詳しく見る

 中村稔さんと言えば、1955年に詩誌『現代詩』に発表した「「雨ニモマケズ」について」という論考において、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」のことを「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」「この作品は賢治がふと書きおとした過失のように思われる」と述べて、議論を巻き起こしました。
 哲学者の谷川徹三氏は、従来から「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」として、とりわけ高く評価していましたから、1961年に「われはこれ塔建つるもの」を『世界』に発表して中村論文の批判を行ない、するとこれを受けて中村氏は、1963年に「再び「雨ニモマケズ」について」という反論を『文藝』に掲載する、という形でやり取りがなされ、世間ではこれを「「雨ニモマケズ」論争」とも呼んで、当時はかなりの注目を集めたということです。

 私などは、もちろんこの論争をリアルタイムで知ることはできませんでしたが、その一方の当事者であった中村稔さんは、後述のように私にとってはある種の「レジェンド」とも言える存在でした。
 その中村さんが、93歳になって今回刊行された『宮沢賢治論』の帯には、「宮沢賢治研究の第一人者が/従来の自説を全否定し、/「雨ニモマケズ」をはじめ/詩・童話を虚心に精読し、/あらたな解釋と評価を詳述した/画期的な論考」「私たちは/「雨ニモマケズ」を/決定的に誤って/読んできたの/ではないか」とありますから、これは何としても、読んでみないわけにはいきません。


 緊急事態宣言が解除されたとは言え、まだ恐る恐る暮らすような日々が続く、今日この頃です。
アマビエを用いた厚生労働省によるロゴ たとえ科学が発達した現代でも、人間にコントロール困難な今回のコロナ禍に際しては、厚生労働省でさえ右のロゴのように、アマビエなどという呪術的魔除けを用いたりしていますが、近代医学が普及する以前には、こういう超自然的な力に頼ろうとする気持ちは、もっと顕著だったようです。
 民俗学者の畑中章宏さんの「感染症と赤のフォークロア」によれば、古来日本では「赤い色」に疫病の退散や予防の力があると信じられていて、様々な形で赤い物品を使用していたのだということです。

日本の各地で、子どもが痘瘡に罹ったとき、部屋に赤い幔幕まんまくを張り、身の回りのものいっさいを赤色にした。肌着は紅紬・紅木綿でつくり、12日間取り替えることを禁じた。疱瘡に罹ったものだけが赤色を着るのではなく、看病人も赤い衣類を用いた。(畑中章宏「感染症と赤のフォークロア―民俗学者 畑中章宏の語る「疫病芸術論」の試み」より)

 疫病にかかった子供の枕元には、回復を祈って赤紙で作った人形や赤い旗を並べたりもしたということですが、これに関連して賢治の作品で思い浮かぶのは、文語詩「祭日〔二〕」です。

   祭日〔二〕

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
四方につゝどり鳴きどよむなり