廣川松五郎のアザミ

 サイトのデザインを更新してから3週間ですが、この間に上のタイトル画像の色彩を変な風にしてみたり、ナビゲーションバーに「その他」や「メール」を並べて、「その他」の内容を一部 CMS 化したり、いろいろいじっています。本文右側の「サイドバー」と呼ばれる部分の背景には、20200614a.png詩集『春と修羅』の表紙のアザミの文様を入れてみたのですが、あらためて眺めてみて、やっぱりこれは素晴らしいデザインですね。
 ここに描かれているアザミのシルエットは、形としては写実的でありながら独特のリズム感があり、高い装飾性も備えています。何となく、「春と修羅」の一節「いちめんのいちめんの諂曲模様…」というフレーズさえ連想します。

 『春と修羅』出版に際して、賢治のためにこの魅力的な図案を描いてくれたのは、当時の気鋭の染織家・工芸作家で歌人でもあった、廣川松五郎でした。廣川は賢治より7歳上で、1914年に東京美術学校(現東京藝術大学)図案科を卒業し、この『春と修羅』の装幀をした1924年には日本美術協会審査員となり、翌1925年は巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品して銀賞を獲得しています。1930年に帝展無鑑査となって、1935年には東京美術学校教授に就任するなど、日本の染織界の第一人者と言える存在でした。

 この廣川松五郎が、いったいどういう縁で無名の田舎教師の処女詩集のために図案を描いてくれたのかという疑問に、間接的ながらヒントを与えてくれるのが、賢治の親戚である関徳也の、次の文章です。


 先日、中村稔さんが『宮沢賢治論』を刊行されました。

宮沢賢治論
中村稔 (著)

青土社 (2020/4/24)

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 中村稔さんと言えば、1955年に詩誌『現代詩』に発表した「「雨ニモマケズ」について」という論考において、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」のことを「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」「この作品は賢治がふと書きおとした過失のように思われる」と述べて、議論を巻き起こしました。
 哲学者の谷川徹三氏は、従来から「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」として、とりわけ高く評価していましたから、1961年に「われはこれ塔建つるもの」を『世界』に発表して中村論文の批判を行ない、するとこれを受けて中村氏は、1963年に「再び「雨ニモマケズ」について」という反論を『文藝』に掲載する、という形でやり取りがなされ、世間ではこれを「「雨ニモマケズ」論争」とも呼んで、当時はかなりの注目を集めたということです。

 私などは、もちろんこの論争をリアルタイムで知ることはできませんでしたが、その一方の当事者であった中村稔さんは、後述のように私にとってはある種の「レジェンド」とも言える存在でした。
 その中村さんが、93歳になって今回刊行された『宮沢賢治論』の帯には、「宮沢賢治研究の第一人者が/従来の自説を全否定し、/「雨ニモマケズ」をはじめ/詩・童話を虚心に精読し、/あらたな解釋と評価を詳述した/画期的な論考」「私たちは/「雨ニモマケズ」を/決定的に誤って/読んできたの/ではないか」とありますから、これは何としても、読んでみないわけにはいきません。


 緊急事態宣言が解除されたとは言え、まだ恐る恐る暮らすような日々が続く、今日この頃です。
アマビエを用いた厚生労働省によるロゴ たとえ科学が発達した現代でも、人間にコントロール困難な今回のコロナ禍に際しては、厚生労働省でさえ右のロゴのように、アマビエなどという呪術的魔除けを用いたりしていますが、近代医学が普及する以前には、こういう超自然的な力に頼ろうとする気持ちは、もっと顕著だったようです。
 民俗学者の畑中章宏さんの「感染症と赤のフォークロア」によれば、古来日本では「赤い色」に疫病の退散や予防の力があると信じられていて、様々な形で赤い物品を使用していたのだということです。

日本の各地で、子どもが痘瘡に罹ったとき、部屋に赤い幔幕まんまくを張り、身の回りのものいっさいを赤色にした。肌着は紅紬・紅木綿でつくり、12日間取り替えることを禁じた。疱瘡に罹ったものだけが赤色を着るのではなく、看病人も赤い衣類を用いた。(畑中章宏「感染症と赤のフォークロア―民俗学者 畑中章宏の語る「疫病芸術論」の試み」より)

 疫病にかかった子供の枕元には、回復を祈って赤紙で作った人形や赤い旗を並べたりもしたということですが、これに関連して賢治の作品で思い浮かぶのは、文語詩「祭日〔二〕」です。

   祭日〔二〕

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
四方につゝどり鳴きどよむなり


サイトのリニューアル

 ご覧のように、当サイトのデザインを更新しました。

 2005年から15年間続けてきた従来のデザインは、自分でコツコツ手作りしたもので、それなりに愛着はあったのですが、時代とともに大画面化・高解像度化していく最近のパソコンで見るには、だんだん窮屈になってきていました。
 今回の新たなデザインは、Movable Type に同梱されている"Rainier"というテーマを少しいじっただけのもので、ごく一般的な「普通のブログ」という体裁です。ちょっと味気ない感じがするのは否めませんが、今後もこまめにアップデートしていく上では、あまり凝ったものにしていると触るのがとても大変で、扱いの手軽さの方を優先したというのが、一つの事情です。
 それにこのレイアウトの方が、従来よりも文章は読みやすいでしょうし、大きな写真を貼ることもでき、また今の時代ではスマートフォンの画面に自動的に対応してくれるのも、ありがたいところです。


 先月の初めに、「ABC予想」という数学の超難問を、望月新一氏という数学者が解決したというニュースが日本中を駆けめぐりましたが、この件ほどには話題にはならなかったものの、仏教学の分野でこれに相当するのではないかと思われる画期的な業績が、2年半前に一人の日本人研究者によって成し遂げられました。大竹晋氏による、『大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』が、それです。

 望月新一氏の「宇宙際タイヒミュラー理論」については、残念ながら私はその1文字すら理解することができませんが、こちらの大竹晋氏のお仕事ならば、たとえ門外漢でもその有り難さの一端には触れてみることができるのではないかと思い、この外出自粛の連休中に一念発起して、氏の大部な著書を紐解いてみました。
 そこには、やはり私には読めもしないサンスクリットの文字や漢文の白文もたくさんあったのですが、それでも研究全体の緻密な構成と、静かで穏やかながら確固とした叙述、それによって開かれていく前人未踏の世界に、心からの感銘を受けた次第です。

大乗起信論成立問題の研究:『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク 大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
大竹晋 (著)

国書刊行会 (2017/11/24)

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「山川草木悉皆成仏」の由来(2)

 先日の「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」という記事では、岡田真美子氏による「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という2002年の論文をもとにして、現在はよく知られている「山川草木悉皆成仏」という言葉が、実は仏典に直接由来するものではなく、最近になって梅原猛氏が造語したものだろうという話をご紹介しました。
 その後、2015年に公刊された末木文美士著『草木成仏の思想』という本においても、「(「山川草木悉皆成仏」は)もとはと言えば、哲学者の梅原猛が言い出したことで、それを中曽根康弘首相が第104回国会における施政方針演説(1986年1月27日)において使ったことで、一気に広まったようだ」と書かれており、今やこの「梅原猛造語説」は、広く認められることとなっているようです。

 前回の記事「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」の最後では、実際これが梅原猛氏の言い出した言葉だとしても、宮澤賢治の書簡にはこれと非常に似た表現が二度も現れていることから、賢治にも造詣の深かった梅原氏のことなので、氏の着想の源は賢治にあったのではないかという、勝手な憶測も書いてみていました。


随縁真如・心生滅・唯心

 1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。

     ※ 随縁真如
784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌しちぜつのかぎを得たまふ。
     ※ 同
785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも
786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根本中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根本中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。


Casual observer! Superficial traveler!

 「オホーツク挽歌」の後半で、賢治は樺太の栄浜の海岸にたたずみ、いつまでも死んだ妹のことばかり考え苦しみつづける自分を責めています。

やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
この十字架の刻みのなかをながれ
いまはもうどんどん流れてゐる
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
  (Casual observer! Superficial traveler!)

 最後の行の'Casual observer! Superficial traveler!'という英語は、たとえば『定本 宮澤賢治語彙辞典』では「いいかげんな観察者! 浅薄な旅人よ!」と訳されていて、迷いにとらわれつづけている己れへの自嘲と解されます。

 ちなみに、この前の作品である「青森挽歌」には、'O du eiliger Geselle, Eile doch nicht von der Stelle!'というドイツ語が不意に出てくるのですが、これは'Des Wassers Rundreise'という作者未詳のドイツの詩の引用であることがわかっています(「水めぐりの歌」参照)。
 ならばこの'Casual observer! Superficial traveler!'も、ひょっとして何かの出典があるのではないかとふと思い、ネットで検索してみたところ、一つの小説に行き当たりました。
 チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の長篇『ピクウィック・クラブ』が、それです。


心はとにかく形だけで...

 先日、「「摂折御文 僧俗御判」の目的」という記事に書いたように、賢治はこの抜き書き集を編むことによって、「折伏」に臨む己れの心を鍛え直し、また「家を出る」覚悟を固めようとしたのではないかと考えているのですが、たとえばその具体的な影響は、次のようなところにも表れているのではないかと思います。

 「摂折御文 僧俗御判」の53番目に引用されている「出家功徳御書」は、僧をやめて還俗しようとしている弟子に対し、日蓮が思いとどまるよう戒める内容の書簡ですが、その中に下記のような箇所があります。 (『新校本全集』第14巻本文篇p.319)


「摂折御文 僧俗御判」の目的

1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か

 『新校本宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『本化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。
 全集校異篇の《補説》によれば、この抜き書き集の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。

 何よりまず、この題名の読み方からして難しいですが、全集校異によれば、これは「ショウシャクゴモン・ソウゾクゴハン」と読むのだそうです。そして、前半の『本化摂折論』からの抜き書きが「摂折御文」に、後半の『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きが「僧俗御判」に相当するというのが、新校本全集の解釈です。