開墾と教育の人、高野一司

 1926年(大正15年)1月から3月まで開講された「岩手国民高等学校」において、同校主事を務めた高野一司は、宮澤賢治と深い関わりを持つことになりました。
 この二人の間の興味深いエピソードとして、『新校本全集』第16巻(下)年譜篇には、次のような記載があります。

 国民高等学校の主事は県社会教育主事の高野一司で、はじめから仲がよく、留守の時は賢治が代理をした。このふたりがあるとき猛烈な雪合戦をはじめ、ついには組み打ちになって雪の上をころげまわった。しばらくしてふたりは頭からぼやぼや湯気を上げ、洋服の雪を払いながら笑い合った。このような烈しい賢治の姿を見たことは初めてであったと、農学校、国民高等学校の生徒であった平来作は言う(関『随聞』一八一頁)。
 高野主事については「文語詩篇」ノートに「偽善的ナル主事、知事ノ前デハハダシトナル」ともあり、あるいはそこで公憤があらわれたと見られなくもない。(p.331)

 「はじめから仲がよく」と見られていた一方で、時に烈しい組み打ちをしたり、後に「偽善的」などと評したりするというのは、実際のところ賢治はこの人物に対して、どういう感情を抱いていたのでしょうか。

 今回はこの高野一司という人の生涯を、手元で知りうる範囲でたどってみたいと思います。


 この9月22日~23日、花巻で宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の贈呈式と、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの定期大会が開かれましたので、参加してきました。

 今年の宮沢賢治賞は、法政大学教授の岡村民夫さん、宮沢賢治賞奨励賞は東北大学名誉教授の大内秀明さん、イーハトーブ賞は作曲家の中村節也さんとテノール歌手の福井敬さんです。
 大内さんは残念ながらご欠席でしたが、岡村さんと中村さんは、それぞれに示唆に溢れた魅力的な記念講演をして下さいました。そして福井さんは、表彰の後に賢治の「精神歌」と「種山ヶ原」を、さらに午後には「特別公演」として、「剣舞の歌」、「牧歌」、「星めぐりの歌」に続き、アンコールとしてプッチーニの「トゥーランドット」よりアリア「誰も寝てはならぬ」を歌って下さいました。その圧倒的な歌唱は、私にとっても忘れられないものとなりました。
 会場では録音等は控えましたので、当日の記録のかわりに、ここにはYouTubeから福井敬さんの「誰も寝てはならぬ」を貼っておきます。あの殺風景な「なはんプラザ」のホール一杯に、この輝かしい歌声が響きわたったのです。


『評釈 宮沢賢治短歌百選』

 宮沢賢治研究会より、『[評釈] 宮沢賢治短歌百選』が刊行されました。
 これは、九百首余りあるという賢治の短歌の中から代表作百首を選び、「宮沢賢治研究会」の会員が分担して解説を付けたもので、一見コンパクトながら590頁にも及ぶ浩瀚な一冊です。私も二首分だけ、分担執筆させていただきました。

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 万葉集研究でも著名な歌人佐佐木信綱は、1898年(明治31年)に歌誌『心の花』を創刊し、短歌結社「竹柏会」を結成しました。これ以来現在も刊行を続けている『心の花』は、今年で125周年となり、これは現存する短歌雑誌の中で最も長い歴史を持つということです。
 賢治の親友保阪嘉内は、この短歌結社「竹柏会」の同人でした。1921年(大正10年)6月に甲府で行われた、竹柏会山梨支部の発会記念の会にも出席しています。(下写真は、甲府瑞泉寺で行われた竹柏会山梨支部発会記念会、保阪嘉内は後列左から2人目。山梨県立文学館『宮沢賢治若き日の手紙』p.64より)

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B氏の虹の研究

 『春と修羅』所収の「風の偏倚」には、風で移りゆく妖しげな雲と、澄んだ空に懸かる半月が繰り広げる、夜空のドラマが描かれています。

  風の偏倚

風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜あんこくさんりよう
  (虚空は古めかしい月汞げつこうにみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息たんそくとのなかにあらゆる世界の因子いんしがある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
  (それはつめたい虹をあげ)
〔中略〕
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
  (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
〔後略〕

 ここで、引用部の最後から3行目に出てくる「B氏」というのは、いったい誰のことなのだろうかと気になりました。


 「疾中」所収の「〔まなこをひらけば四月の風が〕」に、萩京子さんが作曲した二重唱を、VOCALOID で演奏してみました。

まなこをひらけば四月の風が
        宮澤賢治作詩・萩京子作曲

まなこをひらけば四月の風が
瑠璃のそらから崩れて来るし
もみぢは嫩いうすあかい芽を
窓いっぱいにひろげてゐる
ゆふべからの血はまだとまらず
みんなはわたくしをみつめてゐる

またなまぬるく湧くものを
吐くひとの誰ともしらず
あをあをとわたくしはねむる
いままたひたひを過ぎ行くものは
あの死火山のいたゞきの
清麗な一列の風だ


「弥栄主義」をめぐる葛藤

 上の動画は、昨年11月のNHK岩手NEWS WEBより、子供たちによる楽しい収穫風景ですが、賢治がこの畑で白菜を栽培していた際には、悲しい出来事もあったようです。
 下記「〔盗まれた白菜の根へ〕」(「春と修羅 第三集」)に、その体験が描かれています。

七四三
         一九二六、一〇、一三、
盗まれた白菜の根へ
一つに一つ萓穂を挿して
それが日本主義なのか
水いろをして
エンタシスある柱の列の
その残された推古時代の礎に
一つに一つ萓穂が立てば
盗人ぬすびとがここを通るたび
初冬の風になびき日にひかって
たしかにそれを嘲弄する
さうしてそれが日本思想
いや栄主義の勝利なのか


 賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年に詠んだ短歌に、「ちゃんがちゃんがうまこ四首」と題された連作があります。

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり。

 方言を巧みに生かし、素朴さとともに哀調も漂う印象的な歌です。

 また、賢治が当時下宿していて、この「チャグチャグ馬コ」を見た「下ノ橋」のたもとには、連作短歌を刻んだ歌碑も建立されています。

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労農党支持の背景

 よく知られているように、賢治は少なくとも1926年から1928年にかけて、労農党の熱心なシンパとして、その政治活動を様々な形で支援していました。

当時の労農党機関紙のポスター
当時の労農党機関紙のポスター
Wikimedia Commonsより)

 労農党(労働者農民党)は1926年3月5日に創立され、その稗和支部は同年10月31日に花巻町朝日座において結成されましたが、この時賢治は種々の便宜を図り、その後も党支部に毎月寄付を続けていたということです。
 下記は、当時労農党盛岡支部執行委員だった小館長右衛門の談話です。

 宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。(『新校本全集』第16巻(下)年譜篇p.322)


 詩「高架線」は、活力に溢れる東京の景観を、斬新な構成で描いた作品です。
 前半部では、大都市が湛える荒々しいエネルギーに驚嘆しつつも、そこに蓄積した疲れや澱みを見てとります。そして後半部では、そういった都市の疲弊を癒し乗り越える希望を、地方の自然に托す、という構図になっています。
 その形式については、入沢康夫さんが「独特の構成派風の詩形が試みられ、それまでの「春と修羅」の詩風からの一歩前進が企てられている」(『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』p.371)と評しておられますが、前半部の未来派的な喧騒の中から、終盤では美しい合唱のように、文語体による「祈り」が立ち上がってくる様子が感動的です。

  いまこのつかれし都に充てる
  液のさまなす気を騰げて
  岬と湾の青き波より
  檜葉亘れる稲の沼より
  はるけき巌と木々のひまより
  あらたに澄める灝気を送り
  まどろみ熱き子らの頬より
  汗にしみたるシャツのたもとに
  またものうくも街路樹を見る
  うるみて弱き瞳と頬を
  いとさわやかにもよみがへらせよ
  緑青ドームさらに張るとも
  いやしき鉄の触手ゆるとも
  はては天末うす赤むとも
  このつかれたる都のまひる
  いざうましめずよみがへらせよ
  〔後略〕

 作品の全体からは、まさに音楽的な印象を受けるのですが、最後が祈りのような合唱?で締めくくられるという構造からして、マーラーの交響曲8番とか、ベートーヴェンの9番なども、私は連想するのです。