783 みづうみは夢の中なる碧孔雀まひるながらに寂しかりけり。

 この短歌は、賢治が東京に家出中の1921年4月に、父親に誘われて二人で関西旅行をした際の一首です。
 これは「歌稿〔B〕」において、「比叡」という見出しのもと、さらに「大講堂」という小見出しが付けられた八首の最後に置かれていますので、比叡山延暦寺の大講堂の近くから、遙かに琵琶湖を望んで詠まれたのかと想像されますが、実際にどんな景色だったのだろうかと確かめたくて、今日は比叡山に行って来ました。

 京都から比叡山に行く公共交通機関としては、京都市北部の八瀬からケーブルカーとロープウェイを乗り継いでいく経路と、滋賀県の大津市に出て坂本からケーブルカーで登る経路がありますが、前者の京都側のケーブル・ロープウェイは、3月中旬まで冬季運休なので、後者で行くことになります。

 ということで、京都市営地下鉄と京阪電車を乗り継いで、大津市北部の坂本にある、比叡山ケーブル「坂本駅」にやってきました。

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 先日「イギリス海岸の足跡化石」という記事でご紹介したように、賢治は1925年11月23日に東北帝国大学理学部地質学教室助教授の早坂一郎博士を北上川畔の小舟渡(イギリス海岸)に案内し、バタグルミの化石とともに、何かの動物の足跡化石も採集しました。これについて早坂博士は、雑誌『自然科学』の1926年5月号に「足跡の化石」と題した文章を発表し、「此處に何物かの足跡の残つて居る事は、花巻町の農學校の先生で、一方には新詩人として知られて居る宮澤賢治氏が二三年前から唱へて居た」と紹介しています。また化石が見つかった地層については、「凝灰質頁岩」と記しています。
 実際、賢治の短篇「イギリス海岸」によると、賢治と生徒たちは上記の3年前の1922年8月7日に、この場所で初めて動物の足跡の化石を発見して1つを採取し、翌8日午後にあらためて発掘を行ったようです。

 一方、「1922年5月21日」の日付を持つ心象スケッチ「小岩井農場」には、次の一節があります。

わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、「昔の足あと」を「白堊系の頁岩の古い海岸にもとめた」と書いていますが、「白堊系」「海岸」という表現は、短篇「イギリス海岸」に記された「イギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がする」White_Cliffs_of_Dover_02.jpgという命名由来に当てはまります(右写真は「ドーバーの白い崖」Wikimedia Commonsより)。また、その「頁岩」という地質も、早坂博士による「凝灰質頁岩」という記載に一致します。
 すなわち、「小岩井農場」の上記の箇所は、イギリス海岸における足跡化石発見という、賢治にとって胸躍る体験を、反映したものと思われます。

 しかしここに、一つの問題があります。賢治たちがイギリス海岸で足跡化石を発見したのは1922年8月7日だったのに、それより前の1922年5月21日の日付を持つ「小岩井農場」のテキストに、どうして「昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめた」と書くことが、可能だったのでしょうか。


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 先日の「イギリス海岸の足跡化石」という記事では、イギリス海岸で発見された動物の足跡化石について、東北帝国大学の早坂一郎博士が宮澤賢治の名前とともに報告している文章を、ご紹介しました。
 この資料は、昨年12月21日から機能が大幅に拡充された「国会図書館デジタルコレクション」において、「宮沢賢治」の名前で検索してヒットした結果を順に調べるうちに、見つかったものでした。

 「国会図書館デジタルコレクション」の検索画面は下のようになっていて、検索対象を、「ログインなしで閲覧可能」「送信サービスで閲覧可能」「国立国会図書館内限定」という3つのカテゴリーの組み合わせで設定できるようになっています。

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イギリス海岸の足跡化石

Ichiro_Hayasaka.jpg 東北帝国大学理学部地質学教室助教授(当時)の早坂一郎博士(右写真はWikimedia Commonsより)は、1925年11月23日に花巻を訪れ、宮澤賢治の案内で北上川河畔(イギリス海岸)でバタグルミの化石を発掘し、翌1926年に「岩手縣花巻町産化石胡桃に就いて」という論文にまとめ、『地質学雑誌』に発表しました。その末尾には、「伊藤博士並びに化石採集に便宜を与へて下さつた盛岡の鳥羽源蔵氏、花巻の宮澤賢治氏に感謝の意を表する。(大正十四年十二月二十二日)」との謝辞を記しており、この一連の経緯は、賢治愛好家の間でもよく知られています。(下記ツイート参照)


命の対等な贈与

 親鸞は『唯信鈔文意』において、生き物を殺すことを生業とする猟師と、物を売り買いして利益を得る商人のことを、当時は併せて「屠沽の下類」と呼び、往生が難しい衆生と見なされていたことを記しています。

屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(『唯信鈔文意』)

 もちろん親鸞の真意は、職業によって人間に貴賤があるとか罪の軽重があるとかいうことではありません。上記の少し後には、「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。」とあるのですが、当時の社会で下層に位置づけられていた猟師や商人であろうと、他の誰であろうと、われらすべての人間は、等しく石・瓦・礫のような「凡夫」にすぎず、しかしそれでも皆が阿弥陀を信じることにより救済されるのだ、ということを言っているのです。
 ただそれでも、先日「親子の宗教意識」という記事でご紹介した栗原敦さんの論考にあったように、賢治の父の政次郎などは、現に貧しい人々から利益を得て生活していることで「日々裏切らざるをえなかった宗教的理念」を意識しつつ、さらにその職業は宗祖親鸞によって「屠沽の下類」と呼ばれていたとなれば、その負い目を信仰への邁進によって代償しようとしていたということは、十分にあったのだろうと思われます。

 賢治は、そのような「商人」の子として生まれ、やはりその家業に後ろめたさを感じつつ育ったわけですが、「屠沽の下類」のもう一方である「猟師」がいかにして救われうるのかということも、すべての人の幸福を願う彼にとっては、切実な課題だったのではないかと思われます。

 そして彼が、この問題を一つの作品へと結晶化させたのが、「なめとこ山の熊」だったのだろうと思います。


岐阜と愛知の詩碑

 去る1月9日に、岐阜県と愛知県の小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。

 まず、岐阜県大垣市の牧田小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑は、もう20年以上も前に訪れて、当サイトの「石碑」のページにも既に掲載しているものですが、当時のデジカメによる写真の画質があまり良くなかったので、愛知まで出かけるついでに再訪することにしました。

 まず京都から米原まで新幹線で行き、そこから東海道線に乗り換えて、関ケ原駅で降りました。

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スコープとシャブロ

 2023年になりました。本年もどうかよろしくお願いします。

 大晦日の「ゆく年くる年」を見ていると、この年越しは全国的に雪は比較的少なかったようですが、一昨日あたりから北日本ではかなりの積雪が続いているようですね。
 雪かきや雪下ろしの際などは、どうか安全にお気を付け下さい。

 ところで皆さんは、除雪に使う下の道具を、「スコップ」と呼ぶでしょうか? 「シャベル」と呼ぶでしょうか?

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文明の皮をかぶった野生

 賢治の童話「注文の多い料理店」は、紳士が「イギリスの兵隊のかたち」をしていたり、「RESTAURANT WILDCAT HOUSE」が舞台だったりして、とてもハイカラな雰囲気があふれていますが、物語の骨格には日本の昔話の影響も色濃く感じられます。

 欲深い人間が動物に騙されて酷い目に遭うというパターンは、民話の「狐に化かされる話」と同じですし、また私が最近目にした秋田県の民話「またぎの犬」は、物語の設定などにおいて、「注文の多い料理店」と共通する部分がいろいろあります。
 ウェブサイト「民話の部屋」の「またぎの犬」のページによれば、そのあらすじは次のようなものです。

 白い犬を連れた猟師またぎが、深い山奥で日暮れを迎えた。ふと目についた家のきれいな娘が「どうぞ泊まってれ」と言うので、泊めてもらった。翌朝、その家の赤犬が猟師の白犬と喧嘩をして、白犬は殺されてしまった。
 猟師は仕方なく家に帰り、代わりの猟犬を探していたが、むく犬に化ける和尚と出会って犬を殺された話をしたところ、それは化物に違いないということで、一緒に娘の家を訪ねることになった。
 山奥の娘の家に着いて和尚が言うには、赤犬は狒々の化物で、娘は猫の化物だということだった。翌朝になると、やはり赤犬が和尚の化けたむく犬に襲いかかってきたので、むく犬は赤犬を噛み殺した。怒った娘は本性を現して大きな猫になり、むく犬の喉仏に喰いつこうとしたが、猟師は鉄砲で化け猫を撃ち殺した。
 すると、家だと思っていたところには何もなくなり、ただ岩の洞だけがあった。(「またぎの犬」より)


 そのとき西にしのぎらぎらのちぢれたくものあひだから、夕陽ゆふひあかくなゝめにこけ野原のはらそゝぎ、すすきはみんなしろのやうにゆれてひかりました。わたくしがつかれてそこにねむりますと、ざあざあいてゐたかぜが、だんだんひとのことばにきこえ、やがてそれは、いま北上きたかみやまはうや、野原のはらおこなはれてゐた鹿踊しゝおどりの、ほんたうの精神せいしんかたりました。

 「鹿踊りのはじまり」のこの書き出しは、私が賢治の童話の中で最も好きなところの一つです。いきなり「そのとき……」という言葉で物語世界に連れ込まれると、私たちはもう北上の野原にいて、ぎらぎらの雲や赤い夕陽やすすきの白い火に、目が眩みそうになります。

 今日は、この物語で明かされる「鹿踊しゝおどりの、ほんたうの精神せいしん」について、少し思ったところを書いてみます。

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