『春と修羅』所収の「風の偏倚」には、風で移りゆく妖しげな雲と、澄んだ空に懸かる半月が繰り広げる、夜空のドラマが描かれています。
風の偏倚
風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜や
(虚空は古めかしい月汞にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
(それはつめたい虹をあげ)
〔中略〕
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
(杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
〔後略〕
ここで、引用部の最後から3行目に出てくる「B氏」というのは、いったい誰のことなのだろうかと気になりました。
「疾中」所収の「〔まなこをひらけば四月の風が〕」に、萩京子さんが作曲した二重唱を、VOCALOID で演奏してみました。
まなこをひらけば四月の風が
宮澤賢治作詩・萩京子作曲
まなこをひらけば四月の風が
瑠璃のそらから崩れて来るし
もみぢは嫩いうすあかい芽を
窓いっぱいにひろげてゐる
ゆふべからの血はまだとまらず
みんなはわたくしをみつめてゐる
またなまぬるく湧くものを
吐くひとの誰ともしらず
あをあをとわたくしはねむる
いままたひたひを過ぎ行くものは
あの死火山のいたゞきの
清麗な一列の風だ
上の動画は、昨年11月のNHK岩手NEWS WEBより、子供たちによる楽しい収穫風景ですが、賢治がこの畑で白菜を栽培していた際には、悲しい出来事もあったようです。
下記「〔盗まれた白菜の根へ〕」(「春と修羅 第三集」)に、その体験が描かれています。
七四三
一九二六、一〇、一三、
盗まれた白菜の根へ
一つに一つ萓穂を挿して
それが日本主義なのか
水いろをして
エンタシスある柱の列の
その残された推古時代の礎に
一つに一つ萓穂が立てば
盗人がここを通るたび
初冬の風になびき日にひかって
たしかにそれを嘲弄する
さうしてそれが日本思想
弥栄主義の勝利なのか
賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年に詠んだ短歌に、「ちゃんがちゃんがうまこ四首」と題された連作があります。
夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。
ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。
いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。
下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり。
方言を巧みに生かし、素朴さとともに哀調も漂う印象的な歌です。
また、賢治が当時下宿していて、この「チャグチャグ馬コ」を見た「下ノ橋」のたもとには、連作短歌を刻んだ歌碑も建立されています。

よく知られているように、賢治は少なくとも1926年から1928年にかけて、労農党の熱心なシンパとして、その政治活動を様々な形で支援していました。
労農党(労働者農民党)は1926年3月5日に創立され、その稗和支部は同年10月31日に花巻町朝日座において結成されましたが、この時賢治は種々の便宜を図り、その後も党支部に毎月寄付を続けていたということです。
下記は、当時労農党盛岡支部執行委員だった小館長右衛門の談話です。
宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。(『新校本全集』第16巻(下)年譜篇p.322)
詩「高架線」は、活力に溢れる東京の景観を、斬新な構成で描いた作品です。
前半部では、大都市が湛える荒々しいエネルギーに驚嘆しつつも、そこに蓄積した疲れや澱みを見てとります。そして後半部では、そういった都市の疲弊を癒し乗り越える希望を、地方の自然に托す、という構図になっています。
その形式については、入沢康夫さんが「独特の構成派風の詩形が試みられ、それまでの「春と修羅」の詩風からの一歩前進が企てられている」(『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』p.371)と評しておられますが、前半部の未来派的な喧騒の中から、終盤では美しい合唱のように、文語体による「祈り」が立ち上がってくる様子が感動的です。
いまこのつかれし都に充てる
液のさまなす気を騰げて
岬と湾の青き波より
檜葉亘れる稲の沼より
はるけき巌と木々のひまより
あらたに澄める灝気を送り
まどろみ熱き子らの頬より
汗にしみたるシャツのたもとに
またものうくも街路樹を見る
うるみて弱き瞳と頬を
いとさわやかにもよみがへらせよ
緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ
〔後略〕
作品の全体からは、まさに音楽的な印象を受けるのですが、最後が祈りのような合唱?で締めくくられるという構造からして、マーラーの交響曲8番とか、ベートーヴェンの9番なども、私は連想するのです。
賢治の童話「「ツェ」ねずみ」は、主人公の徹底的な憎ったらしさとともに、その細部の描写が何とも魅力的で、読んでいると思わず頬が緩んできます。
天沢退二郎さんが『新修全集』の解説に書いておられるように、ねずみの通り道に「床下街道」という名前が付いていたり、金平糖を護衛する蟻が「四重の非常線を張って」いたりする様子も微笑ましいですし、いたちの「ちゃうど、たうもろこしのつぶを、歯でこつこつ噛んで粉にしてゐました」といった律儀な日常や、そのいたちが急にツェねずみに責められると、「たしかにあったのや」とか「おまへの行きやうが少し遅かったのや」などと、なぜか関西弁のような口調になるのも、可愛らしいです。
「償ふて下さい。償ふて下さい。」というあの連呼は、子供の頃に初めて読んだ時にはよくわからず不思議な響きで、ずっと印象に残りました。
ところで、このいかにも賢治らしくて面白いお話は、その構造においては、グリム童話の「狼と狐」と、ぴったり重なり合うのではないかと思うのです。
賢治が1921年(大正10年)に家出をして東京で暮らしていた時期の作品に、「公衆食堂(須田町)」というのがあります。下記がその全文です。
◎ 公衆食堂(須田町)
あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり
夕暮れ時でしょうか、都会の片隅で群衆の中に混じって、「いそぎ飯を食む」賢治がいます。
「食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく」という表現からは、みんな何もしゃべらず、ただ食器の音だけを響かせ、ひたすら食べ物を口に運びつづけている様子が目に浮かびます。ふとその時、床に落ちた皿の砕け散る音によって、不意に沈黙が破られました。そしてあたりの人は、何事か互いに言葉を発したのです。
人々の食事という営みが、まるで工場の作業工程のように延々と無機的・機械的に続く中で、ふとその時だけ、「人間」の存在を感じられる瞬間があったのです。
何気ないメモのような断片ですが、家出青年だった賢治の日常の一コマに、都会の孤独が漂います。
短篇「氷河鼠の毛皮」は、イーハトヴ発ベーリング行きの、最大急行列車で起こった事件の顛末です。
このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月やさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。
十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴを発つた人たちが、どんな眼にあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。
「イーハトヴ」という空想上の地名が、「ベーリング」という現実世界のそれと線路で繋がっている状況が不思議な感じですが、賢治はこの「ベーリング」という地名がよほどお気に入りだったようで、いろんな作品に登場します。
「春と修羅 第二集」に、「測候所」という作品があります。下記がその全文です。
三五 測候所
一九二四、四、六、
シャーマン山の右肩が
にはかに雪で被はれました
うしろの方の高原も
おかしな雲がいっぱいで
なんだか非常に荒れて居ります
……凶作がたうたう来たな……
杉の木がみんな茶いろにかはってしまひ
わたりの鳥はもう幾むれも落ちました
……炭酸表をもってこい……
いま雷が第六圏で鳴って居ります
公園はいま
町民たちでいっぱいです
6行目の「凶作がたうたう来たな」の言葉が、この作品の基調をなしています。山が突然雪に覆われ、おかしな雲が飛び、杉の木が茶色に変わって、渡り鳥が落ち、雷が鳴るなど、あたりには不吉な予兆があふれ、人々は心配のあまり公園に集まっています。
今日ここでまず取り上げてみたいのは、後ろから4行目に出てくる「炭酸表」というのは、いったい何なのだろうかという問題です。