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「滋賀県立農事試験場」跡地

 1916年(大正5年)3月下旬、盛岡高等農林学校2年を目前にした宮澤賢治は、関西地方の修学旅行に参加しました。この旅行のスケジュールは、3月19日に盛岡を発ち、20日には東京西ヶ原の農商務省農事試験場を見学、21日に農事試験場渋谷分場と上野の海事水産博覧会を見て、22日に静岡県の興津園芸試験場、23日早朝に京都に着いて東西本願寺、京都府立農事試験場、府立農林学校、金閣寺、北野天満宮を巡り、24日に京都御所、二条離宮、桃山御陵、府立農事試験場桃山分場、奈良県農事試験場の見学、25日に奈良公園、大阪府柏原村の農商務省農事試験場畿内支場、26日に三井寺、石山寺、滋賀県立農事試験場、琵琶湖疏水とインクライン、南禅寺、27日に三十三間堂、清水寺、南禅寺付近の蔬菜栽培の見学をして解散、という非常に盛り沢山な内容でした。

 この時に賢治が見学した関西地方の農事試験場のうちで、京都府立農事試験場、京都府立農事試験場桃山分場、奈良県農事試験場については、以前にそれぞれ「1916年修学旅行の京都(1)」、「1916年修学旅行の京都(2)」、「奈良県農事試験場の場所」という記事で場所を確認しましたので、今回は残る「滋賀県立農事試験場」があった場所を、調べてみようと思い立ちました。

 この修学旅行の詳細は、1916年7月発行の盛岡高等農林学校「校友会報 第三十一号」に、同級生で分担執筆した「農学科第二学年修学旅行記」として掲載されていますので、まずはこれから見てみましょう。
 農学科第一部の三木敏明は、次のように書いています(『新校本全集』第14巻校異篇p.21-22より)。

二十六日晴 無風〔大津行〕   三木敏明
〔石山三井二寺参詣〕
昨夜来N、K二君風邪の心地にて床に付く。元気の二君の欠けたるは、十人も人数の減りたる如し
例へば
戦の門出に法螺の欠けたると云はんか。
八時宿を出で京津電車にて大津に向ふ。山科の辺りを過ぐ。大石良雄に有名たり名所旧跡又多し追分け過ぎて大津に着く。
歩して数町三井寺に詣づ。長等山園城寺なり、
石段数十回上りて観音堂あり詣ずる人多し。寺境琵琶湖に臨み景勝の地たり。
〔中略〕
其れより汽船にて一時間半石山に至る。途中膳所粟津瀬田を過ぐ又景勝地たり。石山寺に詣づ
〔中略〕
再び和船にて湖に浮ぶ唐橋の下青嵐の辺りより船を棄てて農事試験場を訪ふ。
滋賀県立農事試験場参観
船の内から遙に赤い屋根の建物が見える此が滋賀県立農事試験場である、当場は二十八年の創立田二町畑四反余化学種芸園芸種畜の各部を有して居る。陳列場を見ながら暫らく休息する。稲麦の標本が多く殊に珍しい大粒種があつた。其れから場長の懇切なる講話があつて益する処が少なくなかつた
〔中略〕
帰りは二途に別れた。吾々は電車で大津に其れから和船で疏水を下つた。
疏水の三つのトンネル明治十五年頃の工事としては大事業であつたと思はれた。有名なるインクライン南禅寺を見て宿に帰つたのが六時他の途を通つた一行も最早帰つて居つた。〔後略〕

 この時の彼らの京都の宿は、以前に「京都における賢治の宿(2)」でご紹介した「西富家」で、まずはここから「京津電車にて大津に向ふ」ということですから、「三条大橋駅」まで900mを歩き、京津電車に乗ったのでしょう。「京津電車」は、1912年(大正元年)に、京都の「三条大橋」から大津の「札の辻」までの10km区間で開業していました。現在の京阪電車京津線と、ほぼ同じ路線です。
 大津側の終着駅「札の辻」は、現在は駅としてはなくなっていますが、大津市京町一丁目交差点付近だったということで、ここから三井寺までは1.5kmの道のりです。

 三井寺から石山寺までは「汽船」に乗ったというのは、当時の「湖南汽船」と思われます。(賢治は、1921年の父との関西旅行の際にもこの汽船を利用しており、その停泊港については、以前の記事に地図とともに載せました。)
 そして一行は石山寺参詣の後、今度は「和船」で下青嵐まで来て下船し、ここからいよいよ「滋賀県立農事試験場」に向かったということです。

 滋賀県立農事試験場は、1895年(明治28年)に滋賀県滋賀郡膳所町大字別保(現在の大津市別保)に創設され、その後草津市に移転し、さらに現在は近江八幡市に移って、「滋賀県農業技術振興センター」になっています。
 ですから当時の農事試験場は、今の「大津市別保」にあったということで、これは地図を見れば大体どのあたりかはわかるのですが、ただしかし我ら賢治ファンとしては、「賢治がまさにここの土を踏んだ」という場所を、できればピンポイントで知りたいのです。

 そこで、国会図書館デジタルライブラリーで、1912年発行の「滋賀県立農事試験塲一覧」という書物を見てみますと、農事試験場の位置については、次のように書かれています。

   第一節 位置
滋賀郡膳所町大字別保通稱粟津ヶ原ニアリテ東海道馬塲驛ヨリ膳所町新道ヲ經テ東南約十八町石山驛ヨリ北約五町ニアリ

 当時の東海道線「馬場駅」は現在の「膳所駅」になっており、1町≒109mで換算して地図を見れば、場所はさらに具体的にわかってきます。加えてこの書物の口絵には、試験場の構内図として、下のような図が載っていました。(上を北にするために90度回転し、淡赤色の点は引用者が付けています。)

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 図の右端に「東海道」とありますがが、江戸時代までの旧街道としての「東海道」は、別保よりもかなり東の湖岸近くを通っていましたので、これは旧街道を指しているのではなく、鉄道の「東海道線」のことと思われます。上の農事試験場の位置に関する説明に「東海道馬塲驛」と表記されているのも、それを支持します。
 そこで次に、現在の大津市別保あたりをGoogleマップで見てみると、下のようになっています。

 この地図を見ると、赤いマーカーを立てた「斜めの道」が、何となく気にならないでしょうか。私が思うには、マップ上で北東から南西に向けて延びるこの斜めの道は、上の構内図の左上の方にある斜めの道に対応し、その途中から南に向けて道が分れる赤マーカー地点は、構内図の淡赤色の点に相当するのではないでしょうか。
 そう思って眺めると、構内図の右端にある「東海道」も、Googleマップの「琵琶湖線=JR東海道線」に、だいたい一致します。

 ということで、一度気になりだしたら確かめてみたくなってしまいましたので、今日の午前中に、大津に行ってみました(感染予防に注意しつつ!)。

 私の現在の住まいは、「西富家」の近くにありますので、京津線に乗りに行く道筋は、104年前の賢治たちと同じです。
 曇り空の下、三条大橋を渡って……。
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 京阪三条駅の地下から京津線に乗り、22分ほど揺られると、びわ湖浜大津駅です。ここで、石山坂本線に乗り換えます。
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 南行き電車に乗って10分で、粟津駅です。「滋賀県立農事試験場一覧」の位置説明で、「通稱粟津ヶ原」と言われていたところですね。当時はこのあたりは、まだ野原が広がっていたのでしょうか。
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 この粟津駅から西へ歩いていくと、東海道線の踏切に出ます。上の「滋賀県立農事試験場一覧」の構内図の、一番上辺の道が、「東海道」を越えるところです。
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 もう農事試験場があった場所にもにかなり近づいてきましたので、ここにもう一度Googleマップを、今度は航空写真で載せておきます。
 右上隅に東海道線の線路が見えていて、ここで踏切を渡って西へ進み、まずは(A)地点を目ざします。

 下の写真が、(A)地点から南西の方角を見たところです。
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 かなり広角で撮っていますが、右の道が東西に走る道、左の道がここから南西方向に入る道です。
 このあたりは基本的に住宅地になっているのですが、一部には写真正面のような空き地もあって、「粟津ヶ原」と言われていた当時の雰囲気を、ほんの少しですが想像できなくもありません。

 次に、(A)から左の方の道を少し南西に進み、マーカー(B)の地点から、そのまま前方すなわち南西方向を見たところが、下写真です。「斜めの道」が続いています。
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 同じ(B)地点から左を向いて、東の方を見たところ。当時この前方には、試験用の田圃が広がっていたはずです。
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 上写真で(B)からそのまま前=東に進んだ(C)地点から、振り返って西を見たところが下の写真です。この目の前には、試験場の建物群が並んでいたはずです。
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 同じ(C)地点から、今度は南を見てみます。
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 上の道をそのまま南に進むと、国道1号線に出ます。そこから少し西に進んだマーカー(D)地点から、北東に向いて「斜めの道」を見たところが、下の写真です。左の電柱の住所表記にあるように、ここは「別保二丁目6番地」です。
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 ということで、簡単な現地探訪をしてみたわけですが、残念ながら何もとりたてて当時を偲ばせるものはなく、跡地であることを示す記念碑なども見当たりませんでした。しかし、住所と特徴的な道路の形から考えて、やはりその昔の「滋賀県立農事試験場」があったのは、この一帯だったのだろうと思います。

 往復2時間半のささやかな Go To トラベルでしたが、104年前の賢治と同じ土地を、しっかりと踏みしめてきた次第です。