大島紀行(3)

 朝は4時45分頃から、周囲の森で鳴く鳥たちの交響で目が覚めました。賢治はこれを、「百千鳥すだきいづる」と書いています。

 朝食まではひまなのでぼーっとしていたのですが、もしも賢治が大島で結核の療養をしていたらどうなっただろう、 などと考えたりしていました。この美しい大島には花巻のような寒さもなく、気候は温暖で、自然の恵みが満ちています。 同じ岩手県出身の伊藤七雄が療養地として大島を選んで移り住んだのも、この気候と風土の素晴らしさのためだったでしょう。
 現実の賢治は、1928年6月に大島を訪れた後、まもなく8月に病に倒れると、花巻豊沢町の実家で療養生活に入りました。 その後ほぼ3年というもの、病気の経過は深刻で、本人も途中で何回も死を覚悟したことは、「疾中」の諸作品に表れています。しかし、 1931年春にはなんとか回復して、東北砕石工場の嘱託技師として、少しずつ活動を再開しました。
 大島の伊藤の方は、妹の看病を受けながらその後も療養に努め、同じ1931年の春に、やっと念願の「大島農芸学校」 の開校にこぎつけました。しかしこの時すでに伊藤の病はかなり重く、教師や生徒も思うように集まらなかった上に、ついに同じ年の8月、 病魔は彼の命を奪ってしまいました。開校したばかりの農芸学校は宙に浮き、結局翌年1月に廃校になりました。
 もしも1928年8月、結核に倒れた賢治に伊藤の願望が通じて、この大島で療養することにしていたら、どうなっていたでしょうか。 病気の経過も違っていたかもしれませんし、少なくともこの素晴らしい農学教師を得た大島農芸学校は、つぶれることはなかったでしょう。
 さらに、伊藤の死後は、おそらく賢治が校長を引き継いでいたのではないだろうか、そしてもちろん、 賢治と伊藤の妹チヱは結婚していただろう…、そんなことをとりとめもなく、朝ごはんの前に考えていました。
 それにしても、以後も花巻で寒さに襲われるたびに熱を出していた賢治を、もっと健康に暮らさせてあげたかった、 ここはそういうことを思わせる美しい島です。

 さて、われに返って朝食をすませると、そのような伊藤七雄の夢の跡、兄妹と賢治が楽しい二日間をすごした場所を、 探しに出かけました。
 まず元町港まで下りて、近くでレンタサイクルを借りました。お店の人に、「どちらまで行かれますか」と訊かれても、 とっさになかなか説明できません。
 めざす道は、元町から大島の北西岸に沿った、「サンセットパームライン」というサイクリングロードです。これを、 海を左手に見ながら北上しました。道はなかなかきれいに整備されているのですが、かなりアップダウンがあって、 自転車ではけっこう疲れました。海岸線には、溶岩がそのまま海に流れ込んだような真っ黒な磯が続きます。

 途中で目印を通り過ぎてしまったり、引き返したりもしましたが、 きのう観光協会で無理を言ってコピーさせていただいた住宅地図のおかげもあって、約1時間後に、伊藤七雄の旧宅のあった「字野地655番地」 を見つけることができました。そこには今は一軒の民家が建ち、周囲は小さな畑と、雑草や潅木の茂るにまかせたような林になっていました。

 その昔、このあたりのどこかで、「かういふ土ははだしがちゃうどいゝのです」と賢治が言って、 白い素足で嬉々として土を調べたり種をまいたりしたのだ、と思いました(「三原 第二部」)。
 下の写真が、現在の「字野地655番地」です。