「もう駄目です。…」

 「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 川面を見ていたカンパネルラのお父さんは、時計を手にきっぱりとこう言ったというのです。
 「銀河鉄道の夜」のこの部分にかんしては、以前から不思議な感じがしていました。そんな急流でもなさそうな川なのに、 どうしてわが子の命を四十五分であきらめられるのでしょうか。どうして必死になって探しつづけ、 成果の出せない捜索隊に八つ当たりをしたりせずに、「ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」 などと冷静な顔をして言えるのでしょうか。

 「えひめ丸」の沈没事故の経過を見ていて、この部分を思い出しました。事故後6日目に捜索を打ち切ろうとした米沿岸警備隊は、 日本側からの強い反発にあいひとまず捜し続けることにしましたが、アメリカでは、なぜ日本人がこんな外洋の沈没で、 徒労にも見える捜索にこだわるのか理解できず、困惑が広がったといいます。現地の新聞は、 これを仏教的な死生観によるものと分析していましたが、これは仏教とは、ちょっと違うのではないでしょうか。

 私の理解では、もともとの仏教というのは、生死とか肉親の情とか、そういうものから「解脱」することを説いていて、 無駄とわかってもいつまでも捜しつづけるのは、「執着」なのではないでしょうか。このような考えは 確かに自然な人情には反しますが、 少なくとも仏教とは元来そういうクールな宗教だったと、私は思っています。 後年になって、仏教も種々の煩悩を取り込んでいきましたが。

 そう思ってみると、カンパネルラのお父さんの態度は、ある意味で仏教的だったのかもしれません。
 しかし、宮澤賢治その人の実際の生きざまがどうだったかというと、とくに若いころはさまざまな執着に振りまわされ、 妹が死んだときにもそれを受け容れがたく、翌年になっても妹の行方を探しつづけたのでした。

 仏教者としてはともかく、賢治の芸術に魅力を与えているのは、このようなところでもあります。