佐藤通雅『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』

 佐藤通雅著『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(洋々社)という本を読みました。ごく最近、出た本です。

 賢治が最晩年、「技師」とは名ばかりで雇われ、実際には慣れない訪問販売のセールスマンとして東奔西走し、 いたずらに死期を早めることになったのは事実です。ただ、この時期の賢治については、あまりの痛ましさと徒労感のために、 その毎日を直視する研究が少なかったことは否めません。
 上記の本は、この頃の書簡と手帳を克明に跡づけながら、いったいこの時代が賢治にとって何だったのかを、明らかにしようとした労作です。 とてもよい本だったと思います。
 著者は、『春と修羅』時代の賢治が幻視者として<虚>の世界に向かい合ったことの対極として、 この時期の賢治が<実>なるものに牽引されて極度の凝縮をつづけ、 あたかも恒星の終焉が凝縮の果てにブラックホールを生むかのように、 <詩力>の核として最後の文語詩稿を結実させたと考えているようです。

 私たちは、やはり若い晩年に商人になってしまった詩人として、アルチュール・ランボーの名を知っています。私は、ランボーの生涯を、 「虚空に美しく輝き消えていく花火」のように感じていたことがあったので、上記の本を読んで、これを連想しました。
 中心にブラックホールを生むような星の最期も、その実態は人智を超えた大爆発です。

 その出発において、「このからだそらのみぢんにちらばれ」 と叫んだ詩人の言葉を思い出します。