賢治 日めくり ~8月10日~

- 1923年8月10日(金)(賢治26歳)、7月31日から樺太旅行に出ており、この日は北海道まで戻っていると思われるが、行動は不明である。この旅行については、「オホーツク挽歌 詩群」も参照。
1924年8月10日(日)(賢治27歳)、この日と翌日、花巻農学校講堂において、自作の劇を生徒たちとともに上演し、一般に公開した。プログラムは、「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の4本立てで、それぞれ昼夜2回公演を行った。講堂は、生徒の家族や町の人たちで満員になったという(右写真は、賢治自筆の謄写刷招待券)。
「その夜は八月の夜空が美しく、農学校へ行く道の草木は夜露にしっとりとぬれ、暗い闇をさわやかな微風さへ吹き、これから賢治の芝居を見に行くのだといふにふさわしい夜でありました。
私達が行った時はすでに広い講堂には人が一ぱい居て、幕の上るのを待っていました。私は楽屋をのぞくと賢治は幾多の生徒を督励し張り切って居りましたが微笑して私へ近づき、まづこっちへ来て見て下さいといふから中へ入ると、そこは舞台になるところで、いくつかの椅子が並べられ、ガランとした背景の壁には唯一つ大きな時計が掛けられていました。賢治は生徒の誰彼を椅子に並べさせ、こんな恰好がいいなどと言って各々のポーズを作らせたり、仲々に忙しそうでした。やがて開幕の時間になり、さあこれから始まりますよ、といって賢治は舞台の左側の観衆には見えないところの高い台の上に坐って、所謂舞台監督もするのです。…」(関登久弥『賢治随聞』)
- 1925年8月10日(月)(賢治28歳)、早池峯山に登るために、この日早朝に花巻を出発して、「三七〇 〔朝のうちから〕」(『春と修羅
第二集』)を、スケッチした。夜は北上山中で野宿をしたが、雷雨に遭遇して、「三七二 渓にて」(『春と修羅
第二集』)を、スケッチした。この日の行程については、「河原坊-早池峯詩群」も参照。
- 1928年8月10日(金)(賢治31歳)、元教え子の高橋(沢里)武治あての書簡に「8月10日から丁度40日間熱と汗に苦しみました」とあり、この日頃から発熱して病臥したと推定される。下根子桜の羅須地人協会から、豊沢町の実家に戻り、2階建て別棟の1階西向きの部屋が病室にあてられた。
花巻病院内科医長の佐藤長松博士が、「両側肺浸潤」と診断し、主治医として治療にあたった。院長の佐藤隆房博士も、治療上の助言を行った。
「肺浸潤」とは、本来は非特異的な用語であるが、当時においては言うまでもなく、結核による病変を指す言葉である。結核菌が肺実質内で滲出性の炎症を起こしている状態で、「乾酪性肺炎」と言われる特有の組織像を呈する。
賢治はこの直前の6月に、結核療養中の伊藤七雄を伊豆大島に訪ねて接触しているが、今回の肺浸潤病変がすでに「両側」であったということからすると、大島で結核に初めて感染したという可能性はまず考えられず、かなり以前に初感染があったと思われる。
その時期について佐藤隆房氏は、1914年(17歳)に岩手病院に入院した際、鼻の手術後なかなか熱が引かずに「発疹チフスの疑い」とされた病状が結核の初感染であった可能性を指摘し、また一般には1918年(21歳)に「肋膜の疑い」と言われたことをもって、「後年その生命をうばった結核のはじまり」(【新】校本全集年譜)とされることが多いが、確定は困難である。
その後はしばらく比較的健康と見える時期が続くが、羅須地人協会時代に入ると、1926年10月に「気管がひどくぜいぜい云ふ」と書き、11月には短期間入院したり、翌年には「けふもまだ熱は下がらず…」(1927年5月)、「〔わたくしは今日死ぬのであるか〕」(1927年6月)、「どうもぼくにはかなりな熱があるらしく…」(1928年7月)などの記載が作品中に続き、これらが結核と関係があった可能性は大きいと思われる。